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業界の基本:ユニベガ つづき ベン・ラウウィさんについて

前回(番外 Univega ユニベガ)のつづき

ベン・ラウウィさんについてわかりました。

バイシクルリテーラー誌 2001年7月15日 ワシントン州ケント発

事業開始から26年目となったユニベガが引退する。親会社のダービーUSA発表で、Univega ユニベガ印を無期限停止状態とし、Raleigh ラレー印、Diamondbackダイヤモンドバック印に集中する。

ちゃま注:このタイミングはダービーサイクル終了間際の時期で、同じ7月にはオランダのハゼレGazelleが高値で売却されました=>ラレーの歴史 2001.7。 これでダービー社は負債を返済でき、その結果、ダービーサイクル社が現在も続いているラレーサイクル社として再生する道が開けました。そういう時期の話です。

「これは事業のスリム化の一環です。より少ない品数にし、在庫を縮小するためです。私どもの主要で強力な2つのブランドに努力を集中し、提携する小売店にはさらによいサービスを提供できるようにします。」とダービーUSA会長のビルオースチン(ラレーの歴史の"ダービー社1994年")

ちゃま注:1994年にダービーUSAフィットネス部門社長として来たビル・オースチンさん。2001年新生ラレーからは現在に至るまでラレーアメリカ社のCEOとしてアメリカを任されています。ビル・オースチンさんは、1987年のGiantジャイアントの米国オフィス開設時の責任者(初代社長1987-1993)。ジャイアントはシュウインの自転車設計をマスターして独自ブランドで米国に乗り込んできました。ビル・オースチンさんは、それ以前はシュウイン(Schwinn)の副社長でマーケティングチーフ!(1981-1986)。


Univega ユニベガはダービーのたんすの奥にしまわれているNishiki ニシキと一緒になる。ダービーがニシキを手に入れたのは1988年で、ウエストコーストサイクル社とラレー社を合体させたときだ。ニシキは1999年に引退させられた。

ビルオースチンによれば、ユニベガの市場における近年の位置は動きが鈍かったということで、6月中旬の発表で小売店が驚くことはないとのことだ。この数年間でユニベガ印の自転車は量販店やスポーツ用品店での販売とされていた。

Univegaユニベガは1975年に市場投入されヒットした。Ben Laweeベン・ラウウィが初めて自転車製造を手がけたものだ(*ちゃま注:本当は最初はItalvegaという名前でそれを数年後Univegaとしたもの)。ラウウィが自転車業界に足を踏み入れたのは1959年、最初は小売店だった。しかし同質な市場にすぐに不満を感じ、可能性を求めてイギリス、フランス、イタリアからの自転車輸入を手がけるようになる。1965年には店舗を売却して輸入に特化、Motobecane モトベカン印Raleighラレー印、後にはBianchi ビアンキ印を扱い、米国の小売店に流通させた。

Laweeはトルコ生まれでバグダッド育ち、レバノンのベイルートで学び、アメリカに渡った。1949年にニューヨーク市のコロンビア大学在籍中に、業界のHarry Mankoハリー・マンコと知り合う。マンコはラウウィをマスターデザイナーと形容した。

ちゃま注: (Harry Mankoは1995年にBell Sportsと合併した時点のAmerican Recreation Company Holdingsの会長。(helmets.org) 合併後にはベル副社長。2000年8月時点ではThe Bicycle Council (TBC) 会長 (bike-eu)。1996年ですでに前任が会長。2001年7月にはHarry Manko, a former BPSA president and current advisor to the associationと紹介。2001年のInterbike and Bicycle Retailer and Industry Newsの第一回年間業界賞(Annual Industry Awards)でLifetime Achievement award永年貢献賞がHarry Mankoに贈られている。Mankoは1952から業界で仕事をしている。トレックの創業者ディックバークさん(Dick Burke)が73歳でなくなったことを報じたアメリカの自転車業界誌記事(2008年)で、コメントしている唯一の方です。アメリカの自転車業界の古参の方です。

American Recreation Company Holdingsは、Advent アドベント - Bell SportsBell ベル - Bell Sports ベルスポーツにもあります


ラウウィには先を読む才能があった。ララウィが貢献したこととして、少なくとも次の2つがあるだろう。

1980年代初頭にはリムメーカーのアラヤに米国市場向けのマウンテンバイクを作らせた(ラレーの歴史1980年代)。(ちゃま:いまアラヤはラレーの名前を借りて自分の自転車を販売しています。ラレーの歴史2003年)

「あのころのマウンテンバイクというのは自分で改造するか、カスタム自転車として作ってもらうしかなかったからとても高くついた。だから日本で作ることにした。あれは楽しかった。単なる思いつき、単なる偶然だったが、ヒットになった。」と1996年にラウウィが語っている。

また別のカテゴリーでもラウウィは水平線のかなたを見ていた(世の中の先を見ていた)。コンフォートバイクだ。1996年ユニベガでジグザグ(Zig Zag)を発表。これにはアーバントランスポーテーションビークル(街乗り車:urban transportation vehicle)とラベルされていた。

ラウウィは1997年初頭でリタイアし、ユニベガ印はダービー(*)に売却された。

(*ちゃま注:ダービーインターナショナル社、当時ルクセンブルク登記の会社でラレーブランドをもつ英国ラレーの親会社。ドイツのダービーサイクル社はダービーインターナショナルがドイツのKalkhoffカルクオフを買収し、親会社の名前にあわせて社名変更した会社。)


ユニベガ創業者ベン・ラウウィがガン
Cancer Takes Univega Founder Ben Lawee
バイシクルリテーラー誌 2002年11月12日付 (allbusiness)

カリフォルニア、ロングビーチ発

ベン・ラウウィBen Lawee、ユニベガ創業者が11月8日に胃がんのため76歳で亡くなった。

ラウウィはその全生涯を、小売業、営業販売員、そして卸や供給元として自転車産業界に身をおいていた。

1926年、イラクのバグダッドに生まれ(ちゃま注:上の話とちがいますね)、19歳のときに貨物船に乗って米国に移住してきた。その後、ニューヨークのコロンビア大学のビジネススクールに通い、そこでハリー・マンコと知り合った。

1959年、ジョーンズ自転車(Jones Bicycles)を買収し、一店舗だった店を複数店舗のチェーン店に成長させた。小売店で販売可能なブランドの種類が限られることに失望したラウウィは、1965年にはその小売チェーンを売り払い、ヨーロッパ自転車の輸入を手がけるようになった。

ラウウィはBianchi ビアンキ、Legnano レニャーノの輸入をし、ラレー、モトベカンの全国卸にもなった。1970年代初めにはユニベガUnivegaをはじめた。

「彼は、自転車のスペック作りとそれをよく見せるということにかけてずば抜けた才能を持っていた。彼はモトベカンでそれをやり、米国市場にあったものに作り変えた。そして彼自身のブランドとしてユニベガをはじめた。いい自転車にパーソナルなタッチを加えたものだった。」とマンコは語る。

ラウウィは1996年にユニベガをラレーに売却し業界からリタイアしていた。

15年間ユニベガで働いた息子のデビッド・ラウウィはこういう。「彼の人生は自転車業界そのものだった。朝起きるのはそのためだった。製品をすごく魅力的にすること、いい性能をもたせること、お買い得にすること、といったことを彼は楽しんでやっていた。すごくお手ごろな値段で見栄えと性能のいい自転車というのがラウウィの印(署名/サイン)といえるだろう。」

ラウウィには41年間連れ添った妻アリエラ、(息子の)デビッド、そして娘のモニークがいる。

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