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業界の基本:シュウイン1993年(-1997年再売却先探索まで)
シュウインサイクルアンドフィットネス社
Scott USA の Schwinn (スコットUSAシュウイン時代)

Schwinn 1993-1997 ⇒詳細
Scott USA
Zell/Cilmark
Scott Holdings
ヨーロッパでのアジア製自転車販売でNo2
Scott Sports Group Inc.(New)
Schwinn Cycle and Fitness LP
Bike
Schwinn &Yeti
Fitness
Schwinn
Schwinn 1998-2000 ⇒詳細
Questor Partners Fund
Schwinn Holdings Corporation (New)
Schwinn Cycle and Fitness LP
GT Bicycles, Inc.
シュウインは、1992年から1998年まではスコットSCOTT社のブランドだったんですね。単に傘下としてシュウインが主体的に経営していたのではなく、以前のシュウイン経営陣が抜けてのスコットが主導しての建て直しですから、かつてのシュウインの歴史は断ち切ってのスコットシュウイン時代と呼ぶべき時代の話です。いえ、「スコットが主導しての建て直し」では、「かつてのシュウインを持ち直す」ようにきこえますからちがいました。「スコットのSchwinnを作り出して、Schwinnの看板でスコットのアメリカ用自転車を販売しよう」としたのです。「シュウインを立て直す」のではなく、「シュウインはスコットが後ろに隠れたスコット自転車の『看板』」いいかえれば『かくれみの』でした。この時点から『シュウイン家の歴史を語ること』はマーケティングマジック、マーケティング神話になります。でもスコット時代にはそんなことは言われていないんですよ。この神話を使い出すのはもっと後のことです。明治時代初めに、徳川幕府側のいい話などはよくいわれなかったことでしょう。もっとあとになると語りだすようなものです。それは語る人に都合がいいからです。そういわれると、いわゆるメーカーがそうしているのかと思ってしまいますけれど、それは国によって違うんです。その国の規制が甘ければ、いい加減なことが販売時に言われます。日本はそんな国の一つのようです。日本の販売卸や日本の販売店はかなりいい加減な宣伝をしているように思えます。実際のスコット社やシュウイン社はそうではなかったようです。というのは、他の国ではちゃんと情報がでているからです。日本語では情報がないのです。ということは、日本の自転車ジャーナリズムというものもないということです。雑誌メディアなどの情報はほとんどすべて宣伝のようです。
1998年以降の"SCOTT USA"とは、スイスのスコットスポーツ社(Scott Sports S.A.)の商標。アメリカの会社"SCOTT USA"は、現在ではアメリカ支店。商標と子会社名を同じにしている。アメリカ以外はScott Sports+国名。アメリカだけは、本拠地を創業の地において、創業時の名前(つまり、現在のブランド名)をつけて、昔からつながっているように見えるようにしているということになります。第一義的には「商標」です⇒velosuisse ベロスイス 会員リスト


ドレル:索引
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現在Schwinnは会社ではなくドレル社の商品ブランド

Dorel自転車リヤカー
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主な登場会社は・・・・
Scott USA(1981年チャック・フェリーズ所有), Zell/Cilmark投資ファンド, 前2社の合弁事業の新会社Scott Sports Group(都合SSG), SSGが買収したSchwinn社資産で作った新会社Schwinn Cycle and Fitness L.P., Schwinnブランド高性能自転車のためにSSGが買収したYeti Cycles Inc.,


Scott USAが、投資会社と組んでスコット・スポーツ・グループScott Sports Groupを設立して、チャプター11申請したシュウインを、買収した。と、こういうことです。スコット・スポーツ・グループの子会社としてシュウイン社がありました。このときの社名は、シュウインサイクルアンドフィットネス社 Schwinn Cycle and Fitness LPです。

この時点から、シュウインの実態が変わったということで、1993年以降のシュウインは、1993年以前のシュウインとの連続性はありません。スコットがシュウインのそれまでの地シカゴから、スコットのスキーの地でもありマウンテンバイクの聖地のボルダーにシュウイン本社を移してまでもそれまでのシュウインの考えを断ち切って、魂を入れ替えさせて、そうして作ったのがシュウインのマウンテンバイクHomegrownでした。精神的なつながりはなくなり、これで現在のシュウインを語るのに以前の歴史をもって語るのは『神話』となりました。現在のHomegrownモデルの紹介としてはそれ以前のシュウイン創立の歴史を語ることは適切ではありません。この記事はその転換点を知る重要なトピックのひとつです。ここではスコット社はHomegrownではまだまだシュウインが他と太刀打ちすることはできていないといっていました(このことについて具体的には下の記事をみてください)。シュウインはこの時点ではまだ会社の体をなしていますが、このスコット社のコメントを見てもわかるように、この時点からのシュウインは、会社としてみるよりもブランドとしての役割を期待されていることがわかります。言い換えると、スコット社がアメリカでの自転車分野にもっと深く切り込むために、シュウインという名前に期待をしていたということです。

1997年時点で『スコット・スポーツ・グループがさらにシュウインのパートナーを探す』ところで、この話は終わります。記事ではそう書いてあるのですが、『シュウインのパートナーを探す』とは、「シュウインの売却先探し」ということです。SCOTT USA自身の経営が危なくなっていたのです。

一方、スイスに本社を置いて進出していたヨーロッパで成功していたSCOTT USAのスキー会社スコットSCOTTは、子会社としてスイスで自転車会社をおこなっていて、それは、アジア製の自転車をヨーロッパに販売して、アジア製自転車販売ではヨーロッパ第2位の会社だったという話がありました。詳しくはここでは触れていませんが、ヨーロッパのほうが市場が適していたのでしょう。スコットUSAはこの時点でそういう発言をしていませんが、その後、アメリカは足を洗って、すばやくヨーロッパ体制だけにしたことをみると、すでにアメリカを出ることを決意してのシュウインパートナー探し(実際は売却先探し)をしていたのでしょう。--- 後記--・・・・そうではありませんでした・・・

--- 後記-- スコット社は1958年、アルミスキーポールを作ったエド・スコットがアリゾナ州サンバレーにScott USAを設立・・・いまでもそれだけは触れられます。

でもそれは倒産して、1981年にはチャック・フェリーズさんが買収したScott USAとなっていました。この1981年のチャック・フェリーズさんのScott USAがここで触れる話の主人公です。

1998年(この話の直後)、財務悪化でこのスコット社(Scott USA)は売りに出され、MBOされて、スイスを本社とする現在のスコットスポーツ社に変わっているということもわかりました。

MBO・・・マネジメントバイアウト、経営者による買収ということです。その経営者とは、売りに出されたときヨーロッパの役員をやっていたスイス人の元スコットスポーツ社長や、この話にでてくるスコットスポーツ社社長のトム・ステンダールさんです。トム・ステンダールさんはスウェーデンご出身の方らしいです。(この経緯を、カールトン・レイドさんはやんわりと、「数度の合併を経て・・・」と表現されています。スコットUSAの自転車事業のトップ、キャノンデール創業者の息子さん、キャノンデールマーケティング担当副社長だったスコットモンゴメリさんへのインタビュー BikeBiz2009年9月 カールトンレイドさん

つまり、シュウインは売却され、そして、スコットUSAは(たぶん破たんして)、ヨーロッパを担当していたスコットUSA役員でスイス人の元スコットスポーツ社長Beat ZauggさんがMBOし、新しい会社として設立。それが、今の「スイスのSCOTT Sports SA」です。


この話の時点1997年のスコットスポーツとは、スコットUSAとZell/Cilmark投資ファンドとの共同出資会社としてアメリカに1992年作られた持株会社で傘下にSchwinn Cycle and Fitness L.P. を買収した会社です。

一方の現在のスコットスポーツとは、スイスに1998年に設立された会社で、それ以前のスコットUSAの資産をMBOで買って作られた会社です。そうして、今度はスイスのスコットスポーツ社がアメリカ(だけ)にスコットUSAという名前の子会社を設立しているのです。他国はスコットスポーツの名前のついた会社なのにアメリカだけというのは、よくある「歴史遺産の保全」ということだとおもいます。スウェーデンのシクルーロップ(サイクルヨーロッパ)社が、イタリアだけビアンキ社という名前を残しているのと同じ理由だとおもいます。

 (2005年から、キャノンデールをやめさせられた創業者の子、スコット・モンゴメリさんが「新」スコットUSAでの「自転車事業のトップ」となってスコットのアメリカ販売が再開しています。大げさに表現すると「キャノンデール創業者子弟が米国内にアジア製を売ることにまい進している」ともいえます。これは、ジャイアントの米国社長が数年前までマングース創業者の子スキップ・ヘスさんという構図と同じです。スキップ・ヘスさんはジャイアントを、トレック、スペシャライズドとならぶ「自転車専門店販売アメリカ3大ブランド」とした功績ある方。スコット・モンゴメリさんも、スキップ・ヘスさんもアメリカの自転車産業界の中心BPSA(自転車供給業者会)の実力者です。創業者と切り離されたキャノンデールもマングースもドレルのブランドでアジア製自転車となっています。スコット社の自転車もジャイアントなどで作られています。 →このように書くと、ドレルやジャイアントのことを悪者扱いされる方がいらっしゃるようですけれども、キャノンデールもマングースも、ドレルやその前のパシフィックサイクル以前に、すでにアジア製自転車となっていたことは、広く知られていないというよりも、隠されていたことが知られていないからのようです。アジア製自転車と宣言しているドレルやその前のパシフィックサイクルのような会社の方が信用できる会社だと、ちゃまは思います。それにジャイアントやメリダやアイデアルといった台湾の会社は、一流の自転車メーカーです。中国の自転車生産もその多くがこういった台湾の会社の中国関連工場ですし、中国国産の工場も大変技術力があがってきています。台湾から中国で生産するようになったのは台湾の人件費高騰ですけれど、いまでは中国の人件費高騰で、バングラディッシュやカンボジアに移転しはじめています。いつまでも中国バッシングしているのは、マーケティング神話で欧米製をうたいあげて、高額で売りたい、セールスマンの手のひらの上で踊って、「片棒担ぎ」しているということです。消費者なら、自分で自分の首をしめないようにしましょう)


Cyclebaseasahischwinn

「シュウインはそれらBMXの長い歴史と、そのトリック、すなわちステップジャンプ、バニーホップのひとつひとつと共に歩んできた。」(サイクルベースあさひ)と宣伝されていますが、そうではなかったらしいです。(大人用の自転車は売れるはずがないとして、子供の)自転車の雄との自負をもっていたシュウインは子供の自転車BMXには参入してきました。その当時はすでにその後にGiantとなる台湾メーカーに大きく依存していました。しかしその結果として、安価に販売でき、そうしてBMX市場に参入することはできたようです。そして、この台湾製シュウインBMX販売が、マングースやレッドラインなど本来のBMX自社製作メーカーが次々と台湾製となる端緒をつくったということです。

BMXの歴史といえば、BMXという名前を社名にもっていたBMXプロダクツ社のマングースですが・・・その創業者スキップ・ヘス(シニア)談:マングースバイクはカリフォルニアのイノベーション。自分の工場で製造していた。シュウインが台湾製の販売始めるまでは。シュウインのBMX参入でカリフォルニアメーカーの草の根BMX製造は変わってしまった。Mongooseマングース、GT、Redline レッドライン、そのほか多くのメーカーがSchwinnのBMX製品と戦って生き残るため、輸入にたよらざるを得なくなった。

いまはマングースもシュウインも一緒です。キャノンデールも一緒になりました。

シュウインはBMXの波にも、マウンテンバイクの波にものれませんでした。(とは、下で、スコットのトム・ステンダールさんの語りです。)
シュウインは子供用自転車のメーカーだとおもわれていたのです。ただし、アメリカ人にとって「自転車とは子供のもの」だったのです。アメリカの自転車がマウンテンバイクの時代までおかれてきた状態というものは、アメリカ一の自転車メーカーが「子供用専門」だと思われていたということからも理解できます。「子供用自転車」ではなく「自転車が子供用」だったのです。
マウンテンバイクはアメリカが大人用自転車の先進さで初めて世界に向けて自慢できるものだったということですね。
それ以前は、シュウインのクルーザー、スティングレイなどなど、これなど、遊び心いっぱいのものなのではなく、シュウインの主力自転車で、かつ、アメリカの主力自転車だったのです。日本人がママチャリを思うのと同じ「自転車ってこういうものなんだ」という思いで、アメリカ人はスティングレイを見ていたのです。アメリカ人にとってマウンテンバイク登場以前は、「自転車というものはこれ」だったのです。「ガキチャリ」とか「ちゃまチャリ」というような意識です。これが「クルーザー」というカテゴリー名も当時の子供が喜ぶオートバイを模したものです。米「クルーザー」=欧「ロードスター」=(街乗り自転車=「シティサイクル」)=日「ママチャリ」。どれも同じ使われ方です。短い距離をちょっと乗るための自転車。使う人が違います。アメリカは子供、日本はママさん。日本の「ママチャリ」が生活用品意識だとすれば、アメリカで自転車といえば子供用品/おもちゃ意識。仕様はちがいます。使われる環境が違うから。でも使われ方、短い距離を乗ること、と、その国の一番のユーザー層向け、という点で同じです。だから、国を代表する自転車です。そしてメーカーが力をいれる自転車です。会社の存続に関わります。ここで認められる会社が大メーカーです。一番大きなユーザー層を獲得できます。どちらも競技系は普段の生活の意識外にあります。
BMXやマウンテンバイクのパイオニアたちがシュウインのスティングレイなどを改造してやり始めたというのも、スティングレイが特別なものではなく、そこにそれがあったから、使ったのですね。実は日本でも「ママチャリ」という言葉が普及しだしたのはマウンテンバイク系の自転車が普及しだしてからだったのではないでしょうか。それまでは、スポーツ系の自転車はあったにせよ、普通の自転車という目ではみられていませんでした。マウンテンバイク系の自転車が普通の自転車として販売されるようになって、「ママチャリ」として区別しないといけないようになったのではないでしょうか。

同じように、アメリカではMTB以降、自転車は子供用品ではなく、レクリエーションレジャースポーツ用品となりました。そこは大人から子供まで含まれますが、大人のものというのは、ここで20世紀初頭で忘れられて以来の復活でした。

シュウインは、20世紀初頭に自動車の普及で大人用自転車の需要がなくなったときに子供用自転車市場を開拓した会社でしたが、それ以来、大人用自転車の需要を作らずに、マウンテンバイクも一時の流行として、大人用需要に気がつかずに、倒れたということです。

時代を開拓したシュウインは1920年代から30年代にかけてが青春期だったということです。そこで会社の人格形成がなされた後は、経験でものを考える、単なる暖簾の会社だったということです。1963年のスティング・レイの登場も、結局は会社の青春時代を振り返っているだけの1933年のB-10の焼きなおしに見えてしまいます。



スコット・スポーツ・グループ社100%持株子会社

創立、1895年:アーノルド・シュウイン・アンド・カンパニー

社員180名

1995年売上予想2億5000万ドル

会社の歴史

ほぼ100年となる歴史を持つシュウイン・サイクル・アンド・フィットネス社(Schwinn Cycle and Fitness L.P. )は自転車、自転車関連商品(アクセサリー)の主要メーカー。1890年代に創業、シュウインはアメリカの自転車産業でもっとも知られている名前で、市場シェアを数十年間25%を維持していた。シュウインはアメリカ自転車市場を1980年代から支配、会社がより技術力の高い、軽量自転車、大人向け市場の成長という流行に乗り遅れて失敗するまでは。1992年チャプター11破産後、スコットスポーツグループ(Scott Sports Group)が買収。

イグナス・シュウイン、ドイツからの移民、自転車時代に1895年シカゴに自転車製造をはじめて、国中を席圏、。自転車は比較的新しいスポーツだったが、会社シュウインはパートナーのアドルフ・アーノルドと組んで創業。シカゴには当時自転車メーカーがおよそ90社もあった。

初年度シュウインはワールド・ロードスターを投入。2万5千台を製造。最初の10年で徐々に成長。1900年にはダウンタウンの貸家からシカゴ北西部の広い場所に移転。翌年、会社は再び移転し、ノースコスナー通りに。本社と工場を建設。シュウインは1899年にマーチデービス自転車会社を買収。初の買収だった。

その後の数十年間、シュウインは家族経営の事業として続いた。会社は数多くの機能的な先進性をそのモデルに投入した。バルーンタイヤ、コースターブレーキ、前輪拡張ブレーキ、ハンドルバーマウントギアチェンジなどシュウインが手がけた。シュウインの設計による有名な自転車としては初期のエアロサイクルAerocycle、サイクルプレーンCycleplane、オートサイクルAutocycleなどがある。パラマウントParamount ラインは1938年、スティング・レイSting-Ray は1963年の投入だ。

シュウインは1950年代までには市場の25パーセントを占め、1970年代まで維持した。アメリカで自転車のトップメーカーとして高く評価されていた。その名声に顧客もはなれずシュウインが市場をリードしていた。

市場シェアを失った1980年代

シュウイン家4代目の時代には、しかし、シュウインという会社はそのトップの地位から滑り降りることとなった。その要因にはいくつかあるが、コスト削減の努力の中で、シュウインはミシシッピ、ハンガリー、台湾、中国本土に生産を移した。これらのほとんどが海外のサプライヤーとなるなかで、製品を適時に流通させることに問題が生じた。その上、流通させた製品はかつてよりも低品質で消費者がシュウインに期待するものではなかった。ディーラーとの約束が守れないため、シュウインがおかれていたショップフロアは他のコンペ製品に奪われるようになった。自転車の7割が流通する量販市場で、コンペのHuffy Bicycleハフィー・バイシクル社やMurrayマレー社が市場シェアを伸ばしはじめた。

シュウインにとってより根本的な問題は、サプライヤーとの問題から立ち直れるかどうかということだった。旧シュウインは傲慢で、過去の栄光にあぐらをかいて座っているだけだったが経営陣はそれに気がついていなかった。スコット・スポーツ・グループの社長トム・ステンドールが1993年にビジネスウイークに語ったところでは、(買収交渉で)シュウイン役員に「コンペはどこですか」と問うと、「コンペなんていません、私たちはシュウインですから」と答えたそうだ。このような会社の態度だったために、流行に乗り遅れ、利益を生み出せなかったのだろう。子供用自転車の従来の市場にとらわれていたために、シュウインは大人向け自転車市場が成長していることに気付かなかった。購入者は軽量な自転車を望んでいた。大人用自転車が市場の5割を超えた1980年代半ばに、シュウインはその名声を新市場に転換することなく失ってしまった。ハイテク自転車に研究開発費を割くことなく、シュウインは、”単なる”子供用自転車メーカーと思われていた。大人はより洗練されたものを望んでいた。

新規市場のBMX(スポーティング)自転車市場への参入にも失敗、急速に現れたマウンテンバイク市場にも乗れなかった。アイオワ州ウオータールーのトレックバイシクル社やカリフォルニア州ランチョドミンゲズのジャイアントバイシクル社、カリフォルニア州モーガンヒルのスペシャライズドバイシクルコンポーネンツ社など1980年代の新会社に市場を確保されてしまった。

1980年後半にはこのことが深刻な赤字となって現れた。自転車販売が1987年の100万台から1991年には50万台になり、1993年には27万5千台となった。1992年のシュウインの全米市場シェアは5パーセントしかなかった。1992年単年度で2500万ドルの赤字、3年間合計で5000万ドルの累積赤字となった。ディーラーの信頼を失い、研究開発に遅れをとり、攻めの営業の新興企業にシェアを奪われ、シュウインは1992年10月7日にチャプター11破産法を申請した。この時点でシュウインの累積負債は8200万ドルとなっていた。

1990年代

会社は深刻な危機だったが、シュウインの名声にはまだ救いがあった。シュウインの名声は米国スポーツ用品市場とその流通ネットワークで高く買われていた。1800のディーラーネットワークを持っていたのだ。外部の投資家をいれないというシュウインファミリーの方針でやってきたシュウインだったが、エドワード・シュウイン・ジュニア、最後のシュウイン家のシュウイン経営者が1993年1月に会社を売却。買ったのはスコット・スポーツ・グループ社。スコットUSAは世界のスキー関連商品メーカーで、自転車事業でも成功していた。スコットホールディングスはヨーロッパでアジア製自転車の2番手だった。スコットUSAはシュウイン買収を望んだ。シュウインを手に入れれば米国での自転車事業を拡張できると考えたからだった。スコットはZell/Cilmark投資ファンドと手を組みスコットスポーツグループを設立し傘下にシュウインを4375万ドルで買収した。

スコット・スポーツ・グループは会社を変えることに焦点を当てた。まず、700万ドルを投じて社員を400名から180名にスリムダウンした。シュウインはつぎに、48ラインあったモデルをたった一つで設計しなおした。シュウインの重たいイメージを払拭するような新しいイメージとするのもまた優先事項のひとつだった。これらの努力のいったんとして、スコット・スポーツ・グループはシュウインをコロラド州ボルダーに移転させた。ここはマウンテンバイクの地だった。世界のトップレーサーが集う場所だった。ボルダーに移転させたのはシュウインが一新するようにとの考えからだと社長のトム・ステンダールがいう。約50名がボルダーに引っ越した。シュウインのイメージを変えるためのもうひとつの試みが、宣伝費をおよそ1000万ドルと倍増したことだった。買収時から自転車雑誌に最初の宣伝としてぶしつけ広告を打ち上げた。『シュウインは赤、シュウインは青、またシュウインは軽くすばやい。自動車はだめだ。おしまい。』

会社の新たな方向性を確立するためにはもっとドラスティックなアクションが要求された。スコットスポーツグループの会長、チャールズ・フェリーズはシュウインのトップマネジメントに火をつけ、その下の役員クラスにハッパをかけさせた。新経営陣の最初の仕事は、ディーラーの信頼を取り戻し、ショップフロアのスペースを再確保することだった。シュウインの新社長、ラルフ・マーレー、「ディーラーネットワークはシュウインの供給失敗のためにめちゃくちゃになっていた。旧経営陣の傲慢さはかなりのもので、自分たちがみんなの面倒を見ていると思っていた。信頼を取り戻すために、ディーラーの期待に沿ってわれわれが在庫を調整するようなフロント志向のシステムとした。経営陣は国中を訪れて、800の会社の1400のディーラーと直接会った。」 経営陣の伝えたメッセージはシュウインの新スローガンに現れている。”設立1895年、再設立1994年”

新オーナーの努力はすぐに結果となって現れた。1992年の販売は1億5000万ドルを割り込んだが1993年に利益を計上。しかしこれらすべての変化には副作用もあった。1994年初頭に買収以前からのトップ2人が会社を去った。ケン・レズニアク、シュウインの国内販売部長。バイロン・スミス、マーケティング販売担当副社長、1994年1月に辞職。シュウインの1991年の販売第一位の店を経営しているジョン・グレーブズによれば、悪夢だった。唯一はラルフ・マーレーだけ、しかし彼だけで全部やれるわけじゃない。まだいい製品を持っていると思うが、かつてシュウインがもっていたような優先権を持てるわけじゃない。

1990年代に、新製品で回復を狙う

シュウインのフィットネス健康機器部門は会社の回復に顕著な貢献をなした。シュウインがフィットネス機器市場に参入したのは1960年代。エアダイン・ステーショナリーバイクをもって。1994年、シュウインには20種の製品があった。売れ筋は300ドルから1500ドル価格帯で、動力なしのEasy Tread、Airdyne; リカンベント(座椅子型自転車)、ステッパー(調節可能なショックアブソーバー抵抗付の足踏み機械)。他に高価格帯シリーズが2種あり、Home Trainerシリーズで、家庭向けと会社向け、さらに商用業務用があり、これは階段足踏み(ステア・ステッパー)と、数種類のウェイトスタックが付属したマシンだ。フィットネス機器は1994年に2900万ドルで全販売額の3割を占めた。

1995年のフィットネスブームでスピニング人気が始まりフィットネス部門はこのスピニングでさらに会社に貢献することになった。ヘルスクラブが人気となり、スピニングが自転車に乗ることを模した。ライダーがテンションノブを回すと、とても頑丈なシュウインエクササイズバイクが上り坂をシミュレートする。この自転車、スピナーをクロスカントリーレーサーのジョニー・ゴールドバーグが宣伝した。ゴールドバーグはシュウインDX900ステーショナリーバイクを1980年半ばに改造して、ライドアクロスアメリカのトレーニングとして使っていた。ゴールドバーグの会社マッドドッグアスレチックスとの関係ができ、シュウインがハードの製作、マッドドッグがプログラミングをおこなった。100万ドルを投資し、一台650ドルでステーショナリーバイクの販売を開始。あるいはフィットネスセンターへはリースもした。これには2日間の講師指導もついていた。1996年2月にシュウインは1日に2-3のフィットネスセンターから受注を受けるようになった。これでシュウインフィットネスは全販売額4000万ドル中35パーセントを担うようになった。

(ちゃま:下部にシュウインフィットネスについての別記事)

チャック・フェリーズはシュウインを復活させるカギは製品の再設計にあると見ている。シュウインは第一級のマウンテンバイクを作っていない。われわれは会社を製品で立て直したい。シュウインの新アメリカ製、最高級マウンテンバイク、ホームグロウンHomegrownは1750ドル。会社はまだまだイメージに打ち勝てていない。トレックやラレーに惹かれる人が大半だ。シュウインと比較するときには必ず試乗される。このときが心を変えてもらえるチャンスだ。

ちゃま:「YetiがSchwinnに買収された」ように言われることがあります。でも実際にYetiを買収した主体はScottです。Schwinnとは会社はあっても、実質は、ブランド、銘柄名、印となりました。事業を主体的におこなうものではこの時点からなくなりました。だから1993年以降の話で行動を起こしている主体をSchwinnといっている話をみたら、まず疑ってかかりましょう。スコット時代の話ですが、スコット傘下のSchwinnとは2社あります。昔からのSchwinnと、そのSchwinnを買収するためにつくったSchwinnという名前を持つ持ち株会社です。昔のSchwinnは新持ち株会社の下にありました。Yetiも同じように持ち株会社傘下にあったはずです。だから名義上はSchwinnがYetiを買ったのでしょうけれど、それを昔からのSchwinnとおもって使っているとそれは誤りです。持ち株会社SchwinnとはScottの別名みたいなものですから。紛らわしいですね。でもドレル傘下のキャノンデールなども似たような形でした。最初はキャノンデールスポーツグループという持ち株会社がつくられました。一年後これはサイクリングスポーツグループというもっとわからない名前になりましたが、ブランドのキャノンデールとの区別はつけやすくなりました。買収が絡むと会社名は複雑になります。
1995年に高性能マウンテンバイクフレームで有名なメーカーのコロラドDurangoデュランゴのイエティサイクル社Yeti Cycles Inc.,を買収してマウンテンバイクにさらに力を入れることを示した。この創業10年目の会社は2000ドルから6000ドルの価格帯のダウンヒルレーサー用の玄人向け自転車を作っていた。これはシュウインのホームグロウンの購入層とはまったく異なる市場だ。イエティは財務負担から、シュウインはニッチ市場の有名なブランドを求めて、いっしょになった。シリーズはそれぞれ残したままで、イエティは名前を存続、会社の方向性とイメージを残している。


1995年で100周年、そしてさらに続く

シュウインは1995年で100周年。新シリーズを投入し、ディーラーにはさまざまな小物を送って、それを祝った。ラスベガスではシュウインディグ"SchwinnDig,"と称したイベントをおこなった。このとき、自転車にのったエルビス・プレスリーが100体、飾られた。クラシカルなブラック・ファントム"Black Phantom"の限定版も5000ドルで提供された。このうちのいくつかは、ジェリー・セインフェルド、ヒュー・フェフナーのようなセレブに販売された。しかしながら、シュウインにとっての本当の祝賀会は、シュウインの自転車市場メインストリームへの再参入だった。1995年にシュウインは高性能オフロードバイク、ノビータイヤのクルーザー、BMX子供用自転車を販売した。フィットネス機器は25パーセントを占めた。パーツ&アクセサリーは10パーセントだった。

1996年にトレックについで第二位となることができた。ナンバーワンを獲得するための努力として、1997年4月に新たに戦略的なパートナー、もしくは資金提供パートナーを捜し求めた。もしくは会社を売却するか、部門になることだった。そうして、さらなる資金援助を得て、さらに会社を前進させようとした。『2位となったが、まだ現時点に満足していません。次のレベルに進むために、戦略的なあるいは財務的なパートナーが今すぐに必要なのです。』スコット・スポーツ・グループはスミス・バーニー社にパートナー探しを依頼した。


Yeti
Yeti 詳細は=>yetifan.com

関係ありそうなところを抜粋・・・・

すべては1984年にはじまった

イエティサイクルズ以前、ジョンは映画のスペシャルエフェクツ(特殊効果)の仕事をしていた。スプリントカーレースもしていて、1931年型Indian Scout オートバイをもっていた。サンタモニカの寝袋工場でもパートタイムで働いていた。その寝袋の名前が 'Yeti'だった。その頃ジョンがかなりの衝突事故を起こしてレースをあきらめることにした。ボブという友達が'Motocruiser'とか 'Sweetheart cycles'とかいう名前の自転車のフレームをつくっていた。ジョンが(ジョンの奥さんのリンダと出会った場所でもある)病院に入院中、ボブの自転車会社でインディアンのオートバイを販売しようと思い立った。キャンプ用品のYetiが事業撤退したことを知り、名前が使えることをジョンは知った。数年後、インディアンスカウトをまた買った。工場に置いてのっていた。

1984/1985 イエティ創業者はジョン・パーカー(John Parker)。1984年の年末、フェニックスのマンザニータスピードウェイでのレース中に大事故をおこし、スペシャルエフェクト(特殊効果)業界の仕事での身体検査が合格できなかった。ジョン・パーカーとクリス・ハーティング(Chris Herting)が 'Sweetheart cycles'をはじめた。1985年秋に、ジョンパーカーが自分のオートバイ1928年型インディアン 'Beulah Mae'を売って、フレームのジグとクロモリチュービングを手に入れた。ジョンと奥さんのリンダは特殊効果業界を後にして、 '小さな自転車会社'イエティ自転車をはじめた。パーカーとパートナーのクリス、その兄弟のエリック・ハーティング、そして今では悪名高いフランク・ザウェルダー(溶接男)・ワデルトン(Frank 'The Welder' Wadelton)が、マット・スウィーニーがカリフォルニア・アグーラヒルズに開いていた特殊効果工房のその裏地でだった。ティンカー・ウアレス(ファレス Tinker Juarez)がイエティを借りてのっていたが、後になって、Generalとして契約した。グレッグ・ドレス(Greg Dres)はシングルスピードに乗ったイエティ最初の大物レーサー。元祖Yeti Manは Craig Stormonが作り出した。 Yeti Manは会社のロゴとしてすぐに認められ、さらに氷の斧のロゴも続いた。FRO (For Racing Only)がPatcoのクロモリチュービングで作られた。

1989年、MBAがプロジェクト用自転車としてイエティのelevated chainstaysと数々の技術を備えたUltimateを選択。FRO (For Racing Only)同様Patcoチュービング使用。初期のEステー型の一種。Eステーはすぐに広く使われるようになった。アル・ファレル博士(Dr Al Farrell)がイエティの事業面を支えた。


1990年、イエティ初のカラーブローシャー。コリン・ベイリー(Colin Bailey)がイエティではじめる。11歳で!正式な採用。カンパニョーロがイエティのスポンサーになり、偉大なジョン・トマック(John Tomac)が彼らのために走った。Juli Furtadoも同じ。世界チャンピオンになった。イエティはボックスバンをこの業界で初めて使った会社。誰もがメモを取る。C26が作られた。12台もつくられなかった。トマックがその1台に乗った。Juliも乗った。26CのCはクリス・ハーティング(Chris Herting)の頭文字のC。26はそのときの彼の年齢。クリスは最初のイエティ社員2名のうちの1名。92年まで会社にいた。イエティを離れたあとは、3Dレーシング(3D racing)を立ち上げた。ジョン・パーカーとダグ・ブラッドベリ(Doug Bradbur)とFTWがチャック・ター*シェアラー(Chuck Teixeira) 
How Do You Pronounce “Teixeira”?Teh-SHARE-uh ターシェアラー(テシェーラ, タシアラ)
と作った。初期のARCハードテールができた。開発半ばのProGramチュービング製。Ringleがイエティスポンサーに。

1991年、イエティはコロラド州デュランゴに工場を移転。マウンテンバイクのメッカ、デュランゴに移転した最初の自転車会社。1万平方メートルもの敷地だった。ドリフトのYeti Manに変更され、1998年まで使われた。ヘッドチューブにも描かれて世界中で使われた。ARCハードテールの2.5インチ版のASの製作開始。ロングトラベル版のASLTもこの頃使われた。エリック・ハーティングが社を去る。

1995年、パーカーはイエティをスコットスポーツグループ(Scott Sports Group)に売却。スコットスポーツグループはシュウインの親会社。スコットスポーツグループはチームバイクとハイエンドモデルでイエティのノウハウと工房を使う計画だった。売却額は120万ドルから200万ドルのどこかといわれている。ポール・トレーシー(Paul Tracy)

1996年、シュウインは自身の会社を空っぽにしてすべてイエティを使おうとした。イエティ社員はまだ大切にされた。

1997年/1998年、スコットスポーツグループはシュウイン(イエティ含む)を売りに出した。イエティはシュウイン設計のAS-3を製作し、これで古くなっていたARC ASを置き換えた。ジョンパーカーがイエティを首になった。パーカー自身は、「"自分であるために"だったから」といっている。ジョン・パーカーとマート・ロウウィルがマウンテンバイク殿堂入り。シュウインはイエティブランドをほったらかしにしていた。工場は閉鎖、イエティが今後どうなるのかと少数が見守り、イエティとして何かしなければと思ったが、スコット/シュウイン側は知りたいとは思わなかったし、あちらの望む価格ではハードルが高すぎた。


1999年: 世界に名だたるデュランゴのイエティ工房をシュウインが99年の春に閉鎖。
イエティデュランゴ閉鎖時にはJoe HendricksonとChris Danforthのわずか2名しか残っていなかった。この状態のまま、その4ヵ月後、イエティはシュウインの親会社から、ボラント(Volant)スポーツに売却。ボラント社はハイエンドスキーの会社。売却額は120万ドルといわれていて、事態は好転の方向へ。コロラドのゴールデンの専用工房に移転。この時点がおそらくボラント期でイエティ最悪の時期。特筆すべきは、意思決定はすべてオーナーのボラントで、イエティは関与できなかった。自転車業界をほとんど知らない社長はボラント社長の兼任だった。

2000年:事態が好転。販売が好調。工場も整い始めた。そして、ボラントが辞めるというニュースとなった。損失続きでスポーツ業界から手を引くということだった。イエティも次にナタが振るわれる番!クリスとマイクと数人の従業員とエンスージアストの友人たちでボラントから会社を買った。イエティを救うのに猶予は1週間だったが、彼らはやり遂げた。2001年11月2日に契約書にサイン。イエティはようやく戻ることができた。大(金)会社ではなく(not by some big $$ company)、イエティのことを大切に思う人たちの手の中に。




2001年9月3日付、記事http://www.genesbmx.com/schwinn-news.html
「Yetiはボラント社工場閉鎖の影響なし」


コロラド州ホイートリッジWHEATRIDGE、Yetiサイクルはスキーメーカー、ボラントスポーツ(Volant Sports)の閉鎖の影響なし。ボラント社は会社の購入先を探している。2社はともに、アップルコンピュータ社の共同創業者であるマイク・マークラがその主要な出資者だ。「われわれ2社とも同じ出資者の所有する会社だが、会社としてはまったく別の会社だ。人事と経理で両者に関わっている人物がいるが、今後はこれらを自社でまかなう予定だ。」と、イエティのゼネラルマネージャーであるクリス・コンロイは話している。マークラは1999年8月にシュウイン傘下にあったイエティを買収していた。その理由の一つには、ボラントのスキー事業の補完ができると考えられたことだ。しかしスキービジネスは自転車ビジネスと同様、過去5年間でオフショアに移転していた。ボラントはまだ国内でスキー用具の大半を生産していた数少ない会社の一社だった。「イエティは比較的よくやっていたほうだった。イエティの流通はシュウイン傘下にあったときに15ほどに減ってしまっていたが、現在は100に回復させた。今年の販売は8割増と見ている。」とコンロイ。イエティはまた、イエティブランドの認知が進んでいるヨーロッパと日本で、販売網を構築中。イエティは、従来のダウンヒル用自転車に加えて次回インターバイクで発表予定の新たなコンポーネントシリーズの拡販も小売店に対して期待をしている。

(ちゃま注:一応ボラント社のその後も調べてみました。アメリカ自転車の大メーカーだったハフィーHuffyが買った後、ハフィーも倒産しそうだった時代で、Atomicアトミックを持っているフィンランドのAmer Yhtyma Oyjに渡ったということです。Huffy時代にはすでにAtomicがVolant製品をつくっていたということですから順当な行き先ですね。Huffy時代にAtomicが作っていたということは、Huffyはブランド名や販路(販売チャネル)など販売系だけを買ったということですね。製品の技術や生産設備など生産系は買わなかったのでしょう。

2001-2003 Huffy傘下 製造はフィンランドのAtomic
2003- フィンランドのAtomic
/ 日本のアトミックのアメア スポーツ ジャパン株式会社 でプレスリリースがでています。2003年12月



Mike MarkkulaMike Markkulaマイク・マークラ(1942年生)は、フェアチャイルド社、インテル社に勤め32歳(1974年)でリタイア。スティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアクが1977年アップルコンピュータを法人化する際に、最初の株の3分の1を持ち、初代CEOを用意した人で、第2代には自らCEO(1981 - 1983)、さらに取締役会会長Chairman (1985-1997)と長期に影響力をもった人物。


Volant Closes Plant, Lays Off Workers
2001年8月29日


ボラントスポーツ社'Volant Sports)はアメリカでスキーを国内生産していた2社のうちの1社。工場はコロラド州ホイートリッジにある。操業資金調達ができず従業員95名を解雇。

創業12年になる会社(The 12-year-old company)は、買い手2社と話し合いしているが、詳細は伏せられている。広報によれば再編計画や破産保護申請については予定してないとされる。

ボラント社は生産コストの高騰とキャッシュフローの少なさが問題とされていた。

「資材調達と製品生産と販売店からの実際の回収とにかなりの時間差があったためだ」とボラント副社長のステファン・Hienzch。

ロスアンゼルスのK2社が、もう一社、アメリカ国内でスキー生産をしていたが、先月、中国への生産移管をおこなっている。



Schwinn Fitness
ところで、シュウインの自転車部門は、シュウイン/GTの破綻時にパシフィックサイクルに買収されて、現在ドレルのブランドになっていますが、一方、破綻以前の最後の元祖シュウイン時代に収益源となっていたシュウインフィットネスは、それとは別にフィットネス会社ノーチラスに買収されています。ノーチラスはその後まもなく社名変更をしていると思います。

シュウインというブランドは、自転車とフィットネス機器では別の会社のものとなっているということです。ということでシュウイン印の自転車と、シュウイン印のフィットネスバイクは、現在、まったく別の会社から販売されています。もっとも、ブランド所有と販売とはまったく同じとは限りません。シュウインブランドが他の会社にライセンスされて、まったくいままで参入していなかった商品にシュウインマークがついて販売されるかもしれませんから。

Schwinnシュウインのブランドは別会社Pacific Direct, LLC,で管理


以下はそうなった自転車のシュウインとは別のフィットネス機器会社のシュウインについてのものです。

シュウインフィットネス 

Schwinn Evo SR indoor cycle 2003年10月 SNEWSから

数年前にジョニーGと袂を別って以後、シュウインフィットネスでは独自の製品をインドアサイクリング市場に投入している。いく種類ものシュウインバイクトレーナーが誕生した。その中にEvolution SRがある。いまやシュウインのインドアサイクルとしてトップエンドで、Smart Release機能が付属している。

これはとても頑丈な生き物で、家庭用としてしようするなら、その持ちは相当なもので、孫子の代まで使えることだろう。

SNEWSチームのメンバーの何人かが、この夏の間の数ヶ月間これに乗ってみた。とても乗りやすく、単純明快で、快適で、ワークアウトするにはうってつけ。シートとハンドルバーの調整も簡単ですばやくできるので、体格の違う家族間での共同使用にも適している。アーノルド(シュワルツネッガー)でなくとも、ワークアウト時にバイクを持ち出し使用後に収納することが、一人でできる。38ポンドのフライホイールとギアがロードライディングをシミュレートし、熱心なローディ(devout road cyclist)でも、自然なフィーリングのワークアウトをインドアで、-- SNEWSの僕たちはデッキにバイクを出して乗っていたから、アウトドアでも!--おこなえる。

Schwinn_evolution

まだ続きがありますが、SNEWSでご覧ください。


Nautilus Selling Some Commercial Assets
http://www.bicycleretailer.com/news/newsDetail/3517.html

2009年12月15日

ワシントン州バンクーバー
フィットネス会社のノーチラス社がフィットドラゴンインターナショナル社(Fit Dragon International)への法人事業一部資産の売却契約を締結。

契約は、StairMasterとSchwinn Fitnessの売却に関するもの。法人向けのSchwinn Fitnessブランドインドアサイクリング商品が含まれる。Schwinnブランドの一部の権利は社に残る。Schwinn fitnessの消費者向け小売店販売および直販は残る予定。2009年12月30日までに契約完了を予定。

ノーチラス社はブランド商品の消費者向け小売販売/直接販売に集中するとして、法人向け事業の縮小について発表済みだった。Schwinn商品のうち消費者向け小売販売/直接販売関連事業については契約に含まれない。ノーチラス社が引き続き販売する。

Schwinn商標の一部権利については保有を続ける。消費者向けのSchwinnブランドおよびフィットネス関連商品はマーケティング/商品開発/販売を継続する予定。

契約での資産売却額は1230万ドル。ノーチラスは引き続き残る法人向け資産の売却を進める。

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