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業界の基本:バーリーデザイン協同組合三十年の歴史 ~ そして協同組合でなくなった

Burley Design バーリー・デザインの1978年から2006年までの協同組合時代の社内事情を記した貴重な情報です。

オレゴン大学の季刊誌 オレゴンクオータリー(デイリー読売や日刊ゲンダイと同じ感じなら「季刊オレゴン」でしょうか) 2007年春号掲載のバーリーデザインの物語。読むと物悲しくなる内容ですが、アメリカというところは、このように内部情報も赤裸々にして、みんなで共有していくところに強みがあるのでしょう。この情報が現バーリーの許可の下に掲載されているというのも興味深いところですが、それでも最後のところなど、現オーナーに対して、これでいいのですかと問いかけている文章です。現オーナーの許可のもとだからといって現オーナーを持ち上げているわけでもないところなど、それぞれがそれぞれに主体的です。

冒頭に、内容から時系列に並べて見ました。


Burley Bike Bagsという会社 ペニエバッグと雨具

オーナーの一人(たぶん家族経営だから)アラン・ショルツが自転車リヤカーをつくった

1978年 組合設立 9人 (1978.10.16)

(1980年代初頭不況)ショルツを含め組合を離れる人がでた

1982年 組合員4人  リーダー:ブルース・クレプス 自転車リヤカー販売計画のリーダー

1982年 自転車リヤカー販売480台以下

1983年 800台

1984年 1300台

1985年 2000台

1986年 3000台以上

1987年 5000台近く キャノンデールを超えた

????年 ユージン西部に新しい生産施設

1989年 組合員40名 バーリーライト折りたたみ型ではなく新規ガーデンカートの方向性があった

1989年 秋の自転車ショウで台湾製で折りたたみだが粗雑な自転車リヤカーが展示、バーリーd'Lite評価高まる

1992年 筆者参加

????年 「草案第44版」組織改革 ブルース・クレプスがGM(ゼネラルマネージャー)

1996年 夏、隣接地に広い新工房6万立方フィート リカンベント生産予定、タンデムはこれ以前から、低価格リヤカーも

1997年 ブルース・クレプス退職 外部のグレッグ・ゲンターがGM

1999年or2000年 マット・パービス(01年度MBA卒)がGM

2000年 筆者脱退、リカンベント発売開始(別記事

2002年 11月ロード用通勤用自転車を発表(別記事

2003年 トム・ライトヘイ(01年度MBA卒R&D)がGM 初の赤字25万ドル

2004年 新版デライトトレーラー 販売好調、損失50万ドル

2005年 販売は堅調、損失1500万ドル
ライトヘイは2005年秋に社を去り、チャー・エリングスワース
(別記事:バーリーの危機 2005年時点の状況

2006年春 新社屋を売却しリースバック 創業時以来初の借家での操業
2006年6月 組合員33名でincorporated(法人化)を決定。バーリーデザイン協同組合は終了
BURLEY DESIGN, INC. 2006.6.23-2006.8.9
2006年8月9日 事業破綻 (BURLEY DESIGN, INC.は組合資金管理団体GO FORWARD, INC.になって 2006.8.9から2007.11.16まで続く オレゴン州政府の企業データ
2006年9月9日 マイク・コフラン バーリー・デザイン社(新!Burley Design, LLC )
企業名を継続(8月9日に一度消えた名前を復活)。でも法人としては2006年9月9日設立の新規会社。
2006年12月 Interbike 2006に自転車リヤカーのみで出展

以下太文字など文字飾りは”ちゃま”がつけています


解散 Dissolution

オレゴンで最も成功した従業員所有の協同組合が株式非公開企業となった

パトリシア・マーシャル著


ラスベガスで開かれた2006年インターバイク(*1)は活力みなぎらせていた。自転車業界の誰もがそこを訪れていた。ペダル一個、ブレーキレバー一個をガラスで囲って、まるで宝石のように展示する高価格帯パーツメーカーがある一方で、折りたたみテーブル一つだけでチェーンオイルの改良をアピールしているところもある。営業担当者はポロシャツと磨いた靴で着揃えて、中西部のママパパバイクショップのオーナーからメガチェーンストアのバイヤーまで、みなの目を惹(ひ)こうとしている。ここはラスベガススタイルのショウだ。ストロボがたかれ、ビデオがまわり、女の子はホットパンツ姿でサンプルを渡そうと待ち構える。

この部屋の中心近くにバーリーデザイン・インコーポレーテッドが姿を現した。ユージンの自転車とリヤカー(トレーラー)の製造業者だ。いままでの製品ラインを削減して新たなラインナップを発表した。大変広いブーススペースは数ヶ月前に予約され、以下を展示する予定だった。リカンベント、タンデム、新シリーズのハイエンド"シングルバイク"(普通の自転車)、有名なレインウエア(*2)、そしてバーリーの主力製品でありその名前の起源となった自転車リヤカー(トレーラー)。しかしインターバイクの2週間前になって、従業員所有協同組合に残っていたメンバーたちは会社を個人投資家に売却することを決定。その日に、新オーナーから「バーリーでは自転車とレインウェアはもう作らない」と発表があった。新オーナーは自転車リヤカーだけに集中すると宣言した。そしてバーリーは経営悪化だという噂が夏の訪れと共に聞こえてきた。バーリーは、自転車リヤカー15台のみの展と販売担当員の一隊、という陣容でショーに臨み、訪れた客に何が起こったのかを説明していた。10年前には、こんな物悲しい未来は予想もつかなかった。1996年、バーリーはファンキーな子供載せ自転車リヤカー(チャイルドバイクトレーラー)で国際的なビジネスに打って出て、年間売上は1000万ドルにも達していたのだから。

( ちゃま注:*1 2006年12月 / *2バーリーの雨具はゴアテックス以外では最高との評価だったようです。それは通気が上手にできていたからだそうです。バーリー雨具はジャケット、パンツ、ヘルメットカバー、シューズカバーがありました。通気口がさまざま、ジッパーはわきの下と胸(胸の中央からわきの下を通り腕に沿って前腕まで広範囲))


バーリーはオレゴンでの就職先として十本の指に入る優良企業だった。賃金は時給10ドルほどとそうは高くなかったが、手当が多く、また利益分配があり、さらに協同組合員としての配当もあった。地元だけでなくわざわざユージンまで家族ともどもバーリーで働くためにやってくるほど魅力的な働き口だった。

1996年夏に、バーリーは広くて新しい建屋に引越しをした。6万立方フィート(5,574平方メートル)もあり、より効率的な生産ができるようになった。今後の新製品用のスペースも十分あった。リカンベント自転車、新企画の低価格リヤカー、さらにタンデムシリーズの拡張がこの新工房で予定されていた。珍しがられた小さな協同組合は100人を超えるメンバーを抱えるまでに成長していた。バーリーの成長曲線には限界がないと思われていた。

この10年で何が起こったのか

現在の組合員(メンバー)と以前の組合員の多くがバーリーになんらかの金銭的資産をもっており、彼らの間では近年の経営管理のまずさを責めるものから、協同組合の成功は単なるまぐれ当たりだったという見方までがある。外部の観察者からは協同組合は機能していないとの指摘が繰り返し言われていた。「組合員すべてが意思決定に係る体制では市場の変化への対応能力に欠けている」と指摘されていた。理由はどうあれ決算発表で1500万ドル以上の損失を計上した後、2006年6月にバーリーデザイン協同組合はその存在を公的に終了した。当時残っていた33人の組合員は、協同組合(コーポラティブ)を解消し、事業を会社化(*4コーポレーション)すると決定。同じメンバー(ここはもう組合員ではなく)が9月(*3)には事業売却を決定。破産宣告から数週間後だった。

( ちゃま注:*3 2006年9月8日)

( ちゃま注:*4 「法人化」と書いていましたが、日本で「協同労働の法人格を法制化」といわれているので書き換えました。一般にはincorporateを法人化、corporationを法人と簡単に訳してしまいますが、コーポラティブも法人格あつかいなので、わからなくなってしまいますね。書き分けで、corporationを会社化としました。)

バーリーの初期:小規模な製品系列は自転車という大きな世界での認知と成功とを求めてもがいていた。70年代後半には、クレスウェルにバーリーバイクバッグズ(Burley Bike Bags)があった。オーナーの一人、アラン・ショルツが、壊れたブランコの部品で自転車リヤカーをつくった。自転車につないで試走してみようと、ショルツ家の私道を出ようとしたところで壊れてしまった。アランは粘り強く自転車リヤカーづくりに取り組み、ついには完成させた。それで娘を運び、また、ユージンの土曜市での販売用に荷物を運んだ。こうして、一台をダグ・ハンドショウのためにつくり、次に、バーリーバイクバッグスのペニエバッグと雨具を販売してくれていたユージンのコリンズサイクルショップ店主に一台つくった。

ハンドショウの話:「(店の)誰かがマクドナルドの卸に行ってビール樽(ケグ)を受け取ったとき、このリヤカーがケグを運べるといいのなあ・・と思いつき、実際やってみたら大丈夫だった。」自転車リヤカーフレームに(ハブの)内側取付のみの車輪では(重量物では)車輪が内傾しがちだが、バーリー製は、周囲を取り囲むフレーム(ぺリメーターフレーム)が車輪を(ハブ)両端で支持してくれる。他社製よりもバーリートレーラーが優れている点だ。

ハンドショウはこの自転車リヤカー(トレーラー)を気に入り、店で売りたいと思った。彼は正しかった。「先進的な、何か創造性のある何かなんかはむだなもの。これはただおもしろかった。みんな、これにははまったよ。」と店の男たちについて語った。「これが文化のすべてだった。」

アラブの石油問題でガソリン不足が引き起こされ、最初のアースデイ(1970年4月22日)の直後に環境問題が顕在化。代替交通手段が話題となり、1976年のバイクセンテニアルクロスカントリーツアーが、自転車への投資に火に油を注ぐ役割をした。これは協同組合にとっていいタイミングだった。1978年、ショルツは従業員に事業を売却。(広く一般に)従業員所有の事業モデルが生まれ始めた時期だった。わずか2-3年で全国的にみて少なくとも3000もの従業員所有事業が始まった。レーンカウンティ地区には12の協同組合ができ、バーリーはその一つとなった。他に北西森林部で植林をしていたグループのホーダッズや再森林化から始めて建設部門ももつようになったセカンドグロース、自然食品卸業のスターフラワーなどがあった。

ジェネシスジュース協同組合の長年のメンバーであるクラウディア・セップの話:「正しい生活の糧、意味ある仕事、を探していた。自分が貢献でき、そして自分にも貢献が返ってくるものをみんな捜し求めていた」。80年代初頭の不況で多くの事業の継続が難しくなった。ショルツを含めパーリーを去るものがでた。これはたぶん、平均時給1ドル69セントという賃金に愛想をつかしてのことだろう。1982年までに組合員は9人から4人になった。ブルース・クレプスはまだその一人だった。

クレプスは自転車に情熱をかけていた。協同組合という働き場所の考え方にも入れ込んでいた。クレプスが自転車リヤカーを販売する計画のリーダーだった。必要とあれば望んででも14時間労働の日々をすごした。「ブルースは天才だったと思う。」ともう一人の残った組合員メンバーのジーン・レモンは「ブルースはリーダーだった」という。

20年以上が過ぎた現在、クレプスはワシントン州のロペスアイランドに住んでいる。クレプスは私のために80年代当時の販売数を思い起こしてくれた。82年480台以下、83年800台、84年1300台、85年2000台、86年3000台以上、87年には協同組合では5000台近くの自転車リヤカーを販売し、一番の競合だったキャノンデールを超えた

バーリーはこつこつ貯めた15000ドルでユージン西部に新しい生産施設を建て、増え続ける作業者を収容した。1989年までには組合員40名となった。皆が同一賃金で働き、皆が会社経営に等しく意見を言った。

「40人で全員討議をおこなう」ということが意味することは、「会議が長くなり、しばしば議論となってしまう」ということだった。組合のバンを購入するのに新型のV8エンジンするか中古の6気筒にするかのような些細な問題が、会社の方向を決める重要問題と同程度に扱われた。80年代後半、自転車リヤカーのBurly Lite(バーリーライト)を折りたたみ型にする方向に進むという進化型か、新たにガーデンカートの製作を手がける方向に分岐型進化するか、で議論となり、後者に進むことで決着した。クレプスはいままで成長してきた自転車関連の事業を無駄にするのは災難になると考えた。その決定を覆えし、カーデンカート路線をスクラップにし、折りたたみ式自転車リヤカーに戻るよう議論を続けようとした。折りたたみ式自転車リヤカーは今後数年間、バーリーが成長するのに必要な製品だと思えた。

1989年秋の自転車ショウで台湾の競合会社が折りたたみ自転車リヤカーを展示した。まだまだ粗雑なつくりだった。一方のバーリーのd'Lite(デライト)はエレガントな、よく出来たつくりだった。業界の改革者としてバーリーの評判があがった。

協同組合の組合員は増えつづけ、組合体制を変化させる必要性があることが明らかとなってきた。やがて、グループは「組織体制と意思決定構造」と名づけた文書をつくった。これは「草案第44版」と(ジョークで)呼ばれたが、この版が最終的に採用された。「草案第44版」に沿って協同組合はタスクチームに分かれた。管理チームおよび8人体制の取締役会が組合員から選出された。全員参加の組合員会は、この新経営スタイルで置き換えられた。

草案44の後でも、みんなハッピーということではなかった。新体制の下でゼネラルマネージャーなったクレプスは、時間をかけて物事がスムーズに運ぶよう、草案の再検討と作り直しを重ねた。しかし、組合員幾人かにはまだ議論の種が残っていた。管理者と作業員との間の壁は高くなり、同時に販売が伸び悩んだ。クレプスは「ほとんどの人が大変な困難と感じいらいらしていた。クーデターと感じていたようだ。」という。


(ちゃま注:ここまでは、インタビューアーとして筆者が第三者となって文章が記述されていましたが、ここからは文章の筆者パトリシア自身がバーリーで働いていたときの様子をつづっています。:)

「1992年に縫製のアルバイトとして雇われたときには、ユートピアの作業場に入ったと感じていた。協同組合はその夏に難問にぶつかった。自転車リヤカーの販売が予定数以上となり、あふれんばかりの受注残の山を片付けるアルバイト要員をかき集めるのに春の初めごろにはてんてこ舞いとなった。縫製チーム員は長時間の残業で疲れ果てていた。でも部屋の雰囲気は、明るいスペースで機械がフンフンとハミングのような音をアップビートで立てているその周りを絵と植物が取り囲んでいて、めまいがしそうだった。」

「私がこのチームに参加したことにみんな感謝を表してくれた。しかし数週間が数ヶ月になると、仲良くなって面白おかしくしていたお隣さんが私と話さなくなってしまった。彼女が昼食に行っていたときに私が縫製マシンのアタッチメントを借りた直後から・・・。他の人からそうしろといわれて借りたのだったが。」

「また別のメンバーがチームに不満申し立てをした。私が親知らず(wisdom teeth)を抜くのに歯科保険特典(dental benefits:保険の歯科版/medical benefitsがある)を使ったことに対してでした。協同組合で積立保険をしているので、それは利益を使い込んだわけではないが、私の出勤簿(timesheet)を調べずに、彼女は私がサボっていると言い立てた。(she claimed I was missing too much work) 私がバーリーの気前よさ(largesse)を受けすぎているという噂が広まった(A rumor circulated that)。私は協同組合精神はどこへいってしまったのか、夢からさめた。」

「秋の試用期間を断ろうと思っていたが、仕事はしなければならかったし、バーリーは一番確実なところだった。そして喜んで受けることにした。そうして、私は部屋の別のパートに就いた。そこはもっと居心地のいいところだった。私は枝分かれして、他のメンバーと出会って、そしてこの協同組合に惹かれまた情熱を持つようになった。このグループダイナミクスを体験して私は私の大家族と似ていると思った。たわいもないけんかや仲たがいがあり、日常の仕事も退屈だが、みんなの努力の結果は大事なものなんだという団結の精神(esprit de corps)があった。そして面白かった。隔週で金曜日にはフリーランチがあったし、自然とみな自転車に乗っていた。ソフトボールチームがあって名前は「狂った名無し(the Insane Unknowns)」。夏の夜にプレーした。自転車リヤカーの製造ショップは年に一度ゴルフトーナメントを主催した。ゴルフをするひともしないひともみんなが集まって楽しんだ。縫製マシン室ではテープに吹き込んだ本や音楽やレシピを交換しあった。NPR物語を話し合ったり。みんなでお金を出し合って買い物をしたが、たいていは食べ物だった。」

「バーリーサイクリングクラシック(Burley Cycling Classic)というタンデムの4日間か5日間のステージレースがあって、組合員は、自宅を競技チームに提供し、コース上ではコーナーマーシャルとして運営に参加し、レーサーの食事の調理から最終日のバーベキューのグリル調理まで、ボランティアで働いた。あるカップルが最終レース前夜に自転車を盗まれてしまいバイクショップのみんながショップにあったタンデムをくみ上げてあげて彼らは無事イベントを終了できたというようなこともあった。」

「縫製で2年間働き、次に販売に移った。靴磨きグループに属して、ワードローブをきれいに整えた。毎年秋にはトレードショウに出かけた。うちのグループのブースにいるときのポートレートがある。フィラデルフィアだ。女の人が笑い顔のグループをみて、「みんなそんな格好して仕事にいくの?」っていった。私たちはジョークでショーブースはグループハグのようだと感じていた。ディーラーも私たちが好きで、それは協同組合だということが好きだったということなのだが、でも製品もとてもほめてくれた。販売チームはしわがれ声になり疲れて家に帰った。注文は山ほどもって帰った。これで次の年がいい年になるということがわかった。」

「すべてが愛の祭典というわけじゃなく、いつでも個人的には議論があった。事業の方向性では争いがあった。自転車をどんな色にするかっていう議論も。特に難しかった問題が、「(雇用の)終了」に関するものだった。草案44に基づき、雇用終了には全組合員の4分の3の議決が必要とされていた。90年代初頭に、バーリーは『「互いの自由意思による雇用」に基づく解雇( firing “at will”)』を認めるように弁護士に薦められた。これは調停解雇と同じではないとの説明で、単なる見世物ではなく必要とあれば首を切るということを意味していた。(「従来どおりの雇用形態の)正当性を組合が主張すれば、不法な雇用終了に対する訴訟にさらされることになる」ということだった。弁護士の提案では変更をすすめる多くの疑念が列挙された。みんなは、「理由なく人の首を切るようなところでは働きたくない」、「なぜだれかの首を切らねばならないのだろうか、まったくわからない」というようなことをいっていた。組合員は提案を否決。(自ら)辞めようと思わなければバーリーでの仕事は一生ものだった。」

「1995年、協同組合は隣接敷地に新建屋を建設することを決定。また別の議論が起こった。経費が問題だとした人がいた。しかしバーリーはすでにあふれ出していた。新たなスペースは流れ作業ができる新製品の部屋となる予定だった。夏のある日、何もない場所で、建設開始祝を開催した。ネイティブアメリカン式祈祷と、バーベキュー、ケグ、そして水鉄砲合戦をした。引越しの週は、何台もの自転車リヤカー(トレーラー)に布地やフレームを積み、スチュワート通りを通った。数ヵ月後、協同組合20周年記念と新本社完成を祝してオープンハウス(建屋の一般開放)をおこなった。」

「私はバーリーで8年働いた。すばらしい友人ができた。たくさんの人が私が最初にもっていたユートピアイメージに合致していたけれど、組合員資格の一片が協同組合オーナーシップとイコールであって、言いたいことやりたいことが自由にできるということも学んだ。上から明確な指示がないということ、それがプロセスだったが、扱いにくい厄介なものだった。また、解雇の取り扱い方、悪い振る舞い方が支配的で、文句を言った人がいやおうなしに仕切ってしまった。しばらくたつと、同じ議論の繰り返しだと感じうんざりした。バーリーで仕事を覚えた時に断念していた教育の道に進もうと思い始めた。」

(ここまでがこの文章の筆者パトリシア自身が自分のことについて記述した部分です。以下、再び第三者の目での記述です。:)

1997年に、ブルース・クレプスは退職を発表した。組合員はもとより顧客や友人たちが落胆した。コリンズに移ったハンドショウ氏は数年来バーリーとの関係を保っているが、当時、これを聞いてびっくりし、会社がどんなことになるかと心配したとのことだ。「ブルースを知っているから、彼がやることがわかっていた。ブルースはあの事業が生き延びるられるならどんなことでもしただろう。」 自分が去ることもその一つだったということだ。自分はここのゼネラルマネージャー失格であるとクレプス自身が判断した。クレプスは「長期に渡ってやるべきことは十分やった。」 内輪の戦いで疲れ果てていた。管理構造を変更して数年たっても「私たちとあいつら(“us and them”)=他人事」というメンタリティは存在し続けていた。

北カリフォルニアの協同組合アルバラド・ストリート・ベーカーリーは1981年創業で現在従業員は100人を超えている。ゼネラルマネージャーのジョゼフ・タックは「協同組合の運営は気の遠くなるような仕事だ」という。「精神的にかなりタフじゃないとやってられない。管理しているだけでみなから大ばか者だと思われるなんて、自分からやりたいやつなんかいないよ。」

アルバラド・ストリートは1980年代にバーリーと同じような経営の変更をしている。「文化のジハードだったよ」とタック。そのときは、賃金体系にも踏み込んだ。バーリー組合員には同一給与はたとえ本質的な部分ではなくとも、協同組合にとって変えられない部分だと思われていたが、多くの協同組合が熟練者の新規雇用、雇用継続において、段階型賃金体系(graduated wage structure)を採用している。

タック氏によれば90年代後半に訪れたときのバーリーの印象は「(バーリーの)協同組合は時代遅れ」というものだ。「バーリーは私たちが1986年に89年を目指していたときのようだった。」管理体系と給与水準のことだ。バーリーを訪れたとき、(賃金は)すでに経済面の大きな障害となっていた。新規ゼネラルマネージャーを探しているなということが明らかだった。」

クレプスに変わる人物を探す全国広告には10人以上の反応があり、それは3人に絞られ、バーリー協同組合について知ってもらった後にさらに話が続けられた。かなりのインタビューが重ねられた後、役員会が選んだのはグレッグ・ゲンター(ギュンター)、シカゴ大学でMBA(Master of Business Administration:博士課程まで続くことはなく修士課程で終了するProfessional master)を取得した人物だった。タックはゲンターの初日にバーリーを偶然訪れていた。部外者としての意見であるが、ゲンターがこの仕事をおこなうにあたってバーリー組合員の長にふさわしくないと思ったという。「私は、この男はランチを食べに来ただけだと思ったよ。(たぶん自分の得だけもらいに来た奴という意味?)」

ゲンターはある程度高額の賃金で雇用されたバーリー初のメンバーだった。彼は時給10パーセント増2年後の見直しでさらに高額とするという条件で交渉した。彼は自転車と協同組合について熱心だったが、タックが見たところ、組合員が彼を受け付けなかったうえ、彼も組合員を理解していないようだった。

シンディ・ブルックの話:「私たちは彼の首の痛みであるかのように、彼が通ろうとしている道の障害物であるかのように、彼は私たちを見ていたわ。」 彼女はギュンター時代に長く役員会メンバーを務めていた。2年後の見直し時点で、役員会はゲンターのゼネラルマネージャー職を解いた。ゲンターは協同組合内で他の職を受け入れることなく辞職した。(この記事のためにインタビューを何度も要請したが、彼は答えてくれなかった)

ブルックはゲンターが去った週は協同組合にとって転換点だったという。組合員はみないった。「運転席に私たち自身のうちのだれか一人が座ることとなった。私たちが信頼できるだけの価値を持ち、私たちが信託するに値する統率力をもつ誰かを。さあ選ぼう。」

マット・パービス、MBA01年度卒、彼はシカゴから1992年に越してきてバーリーの販売員となった。その彼がゼネラルマネージャー職に就いた。パービスはオレゴン大学(UO)の修士課程MBAプログラムがたまたまバーリーでの就労というだけの縁だった。パービスは自身はこの仕事があっていると思った。しかし、エンロン規模の企業犯罪が起こった時代だったため、協同組合メンバーの中にはパービスのMBAは不要なものだと捉える向きもあった。「多くの人が、私を人として見ることなく、”協同組合精神に反する悪のビジネス論を学んだ壊れ物”といっていた。」

オレゴン大学で経営学教授だったピーター・シャーラーは90年代中期以降のバーリーを調査した。バーリーの管理者はほとんど遂行不可能な仕事を抱えていた。「組合員資格はまったくわけがわからなくなっていた。管理者は組織の底辺に置かれ、管理者は「トップ」ではなかった。オーナーたちは管理者がしようとしていることをすべて阻止することができた。管理者とは組合員代行という役割だった。」

「”バーリーは組合員のために存在している”と思ってみなが深みにはまっていた。」 ところが、パービスは長くパーリーにいたので、協同組合は変わる必要があるんだという人を信じていた。「私は間違っていた」とパービスはいう。

クレプスやゲンターとおなじようにパービスもまた非難の盾(不満の避雷針:a lightning rod for discontent)だった。会計を明らかにし、雇用終了手順を変更し、バーリーの段階型賃金体系を再検討する、といった構造変化がなければ生き残りはまったくできないとグループのみんなに警告したのだが、かつてとなんら変わることなく物事は同じように進んだ。

「同じ土俵にはのりたくないという人がいた。」パービスはいう。「日が変わるとまた別の誰かが地獄を作り出していた。」 役員会と彼とは温度差があった。ある役員が彼と最初に話をせずに彼を痛烈に訴える電子メールを全員に送った。役員会はこの電子メールについてなにも対応しなかった。最後には、マネージャーを任命する立場の彼がマネージャーによって振り落とされてしまった。

会社がこんな内部問題で揺れていた一方で、海外からの競争により自転車リヤカー(トレーラー)の販売が落ちていた。販売が落ちるにつれ利益も下降した。組合員の間で不満がたまり、口論が増え、辞めるものも出てきた。パービスは2003年6月に銀行関係に職を得て去った。その数ヶ月前にバーリー研究開発部門で働き始めていた01年度MBA卒のトム・ライトヘイがゼネラルマネージャーとなった。

ライトヘイはチャレンジに直面した。「あなたがこの状況すべてを見たなら、嵐が吹きすさぶ様が見えただろう。」 ライトヘイは意思決定プロセス、雇用終了原則、賃金において組織的な変更を始めた。

2004年3月に、役員会は異なる賃金体系を了承。高額賃金は要職に就く人物にとって魅力的であることが必要だとライトヘイは発言したが、あまりいいタイミングではなかった。市場にあわせた賃金支払は数10万ドルもの経費増となった上に、この制度は協同組合の内部ダイナミクスを考慮していなかった。給与額を公開しないとライトヘイは主張したが、これは”ほとんどの意思決定はみなに知らせる必要がある”としたライトヘイのポリシーと矛盾していた。このため、管理への疑念が一段と増幅した。モラルはますます悪くなり、さらなる旅立ちが始まった。「賃金変更によってみんな一緒だという気持ちがなくなってしまった。」とバル・ホイルはいう。ホイルは1999年にトレックをやめてバーリーの国際販売マネージャーとなっていた。彼女の給与は上がったが会社をやめた。彼女は今年の秋にバーリーの新バーリーオーナーによって再雇用され、販売部門全体を統括することになった。

海外との競争と戦うため、協同組合は新版デライトトレーラーを2004年に発表した。販売は幾分向上したが、新型のコストはかなり上昇していた。生産プロセスを流れ作業にすることでコスト上昇分を埋め合わせできるとしたライトヘイの主張もメンバー全員の了解を得るまでに至らず、事態の好転はなかった。

2003年、会社はこの数十年間で初めての赤字25万ドルを計上。2004年、自転車リヤカー(トレーラー)販売が飛躍的に伸びたにもかかわらず、損失は50万ドルと増加。2005年、販売は堅調、損失は1500万ドル。

ライトヘイは2005年秋に社を去り、チャー・エリングスワースに交代した。CFOとして数ヶ月前にバーリーに来たばかりだった。気は進まなかったが、彼女はゼネラルマネージャーとなった。組合員ではない初のゼネラルマネージャーだった。もう組合員でなろうというものがまったくいなかった。協同組合は外部を探す余裕もすでになかった。エリングスワースは幽霊船を統括した。

2006年、会社はまた大損失を記録。春には新社屋を売却しリース賃貸とした。この約20年間で初の間借りとなった。これによって事業は数ヶ月生き延びられた。しかし、9月にはとうとう観念するときがやってきた。9月6日、株主全員はバーリー最後の会議に召集された。このなかで現組合員は会社を地元の起業家マイク・コフラン('79年卒)に売却することを決定した。コフランは9月9日にバーリー・デザイン社(Burley Design, Inc., )の単独オーナーとなった。

クレプスはバーリーを去った後、別のニッチ市場を見つけた。リューテイエ(弦楽器職人)が使う木材加工機だ。販売はまずまず。ハイテク機械を使って工房で一人でつくっているので無駄なものはない。クレプスはギター製造の協同組合をはじめたいと夢見ている。

ロペズ・アイランドの岩浜に立って、彼は協同組合が崩壊するのがどんなにたやすいことか驚いている。「後戻りできないように何らかの布石を打つまではやったと思っていた。しかし、実際やっていたのは議決だけだったんだよ。」

新オーナーが旧バーリーのリーダーであったブルースさんの名前を知らないなどということがあるのでしょうか!ということを暗に言っています。
インターバイクの会場で、コフランは会社の成長条件について語った。彼は可能性に情熱をもって取り組んでいる。協同組合の過去についても尊敬して取り扱っている一方で、前を向いて進むことを望んでいる。インタビューの中で私がブルース・クレプスについて触れると、コフランは「その名前は聞いてないと思う」と言った。

パトリシア・マーシャルは02年卒のフォレストマガジンの編集者。以前のバーリーデザイン協同組合は現在Go Forward, Inc.と再組織化されているが、彼女は、他のバーリー組合員たちと共に、その株式を保有している。

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