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業界の基本:ラレーの歴史 (資料編 年別)

ラレー関連ページ

1860s
1868
m1
Rudge Cycle (en.wikipedia.org)

ダニエルラッジさん (Daniel Rudge 1840–1880) が1868年にベロシペード製作。ラッジ自転車 (Rudge Cycle)創業。(1870年代のラッジへ)

1870s
ラッジ社が作ったオーディナリー(ペニーファージング)型の画像:1876年/1880年の56インチ (Artfact)/1887年チェーン駆動(Metz Bicycle Museum)。 ベロシペードのち自転車を製作。ダニエルラッジは調整できるボールベアリングハブを発明(1878)。(1880年のラッジへ)
1880s
1880
m13
BSA (自転車部門は事業を子会社化してのちの1929年B.S.A Cycles Ltd)

イギリス政府からの銃需要が落ち込み、1870年代にOttoオットーさんが作った三輪自転車DICYCLEダイシクルで自転車事業に参入。1880年、BSAが自転車製造事業立ち上げ(二輪車と三輪車)。1881年、自社設計で製造開始。1888年-1893年はマガジンライフル Lee Metford 製造のみ。空気タイヤが発明されイギリスは自転車ブームとなって、1893年に自転車事業再開(ハブ、その他コンポーネントも自社生産)。1908年、A.E.WillsさんがBSAの自転車で1時間距離(one hour world distance record)61マイル972ヤードの新記録達成。1時間走行平均速度1マイル/分の壁を破った。アストンのハーキュリーズ(Hercules Cycles of Aston)も自社で生産した自転車に一時期BSAプレートをつけて販売。

BSAはクリミア戦争(1854-56)勃発で武器不足となった時、それまで手作りだった銃製造をイギリス政府がEnfield Worksでの機械生産導入成功例をバーミンガムの16の銃メーカーに指導してBirmingham small arms trade consolidatingが結成され、1861年7月に一つの会社Birmingham Small Arms Company Limitedとして創業した会社。1863年、Small Heathスモールヒース工場建設、1866年、Adderley Parkアダレーパークの兵器工場買収でThe Birmingham Small Arms and Metal Companyと大きくなってきていた。

アニメのマイティ・ハーキュリー Mighty Hercules 日本版オープニング映像

BSAのオートバイは1909年から販売。1930年には三輪自動車も。 (rifleman.org.uk/madeinbirmingham.org/bsarestoration)

BSAの自転車用ねじはイギリス標準(British Standard Cycle:BSC)として採用され、これがISO標準の元となった。(sheldonbrown

D. Rudge & Co (en.wikipedia.org)

ダニエルラッジさん Daniel Rudge (1840–1880)が亡くなり、1880年にTangent & Coventry Tricycle Companyと合併しD. Rudge & Co。ラッジの車軸でフランス人レーサーCharles Terrontがパリ=ブレスト往復で優勝してラッジが国外でも有名に。ダンロップの空気タイヤ以前の1887年にはラッジは4つのブレードにばねサスペンションがついたフォークを使った。

Phillips (J. A. Phillips & Co. Ltd)

ウォルター・フィリップスさんWalter Phillipsが1880年ごろ、イングランドのバーミンガム近郊スメスウィックSmethwickでフィリップス自転車会社を創業。1980年代に終了。英国(グレートブリテン)でラレーに次ぐ自転車製造大手2番手になる。1908年Smethwickのクリデンダ製作所(Credenda Works)を買い上げて、バーミンガムから移転。(buyvintage1.wordpress.com )

フィリップス自転車はイギリスの自転車製造会社でラレーに次いで長らく2番手だった。会社の標語は"Renowned the World Over"、自転車のプレートも "Philips of Birmingham, Renowned the World Over. Made in England." 。フィリップス印はいまだ世界中で使われている。特に中国と極東地域で。これはラレーがライセンスしている。

フィリップスは何百万台という自転車をつくり、その多くが輸出された。またモペッド(原動機付自転車)もつくった。'Pandaパンダ'[1950s-1960s]や'Gadaboutガダバウト[1960s初期]'がある。1958-1962年モペッド初期の段階ではRexエンジンのみドイツ製以外すべてイギリス製。後にPanda Mk 3 やGadaboutはフランスのモトベカンMotobécane [1923-1981] が製造したモビレット(Mobylette)モペッド[1949-1997]のライセンスだった。(モトベカンは破綻し、資産を1984年に(フランス政府の圧力により)日本のヤマハ発動機が手にし、フランスで日本のブランドといわれるMBKとして活動中。)

ドイツのタイヤの会社Ralf Bohle & Co GmbHのイギリス子会社が「創業者会長ラルフ・ボーレ(Ralf Bohle)のおじが"J. A. Phillips & Co. Ltd"の共同創業者なので、イギリスとは長い関係がある」といっています。bohle.co.uk

1885
m18
TI前身

バーミンガムのクリデンダチューブ社(Credenda Tube Co.,)で優れたチューブ技術が開発された。WCスティフさんとHBSベネットさんが溶接不要のチューブ製造法を完成。溶解鍛造製法(ソリッドチュービング)で軽量チューブをロウ付け可能とした。力がかかるところだけ太くできるようになり、強さを失わず自転車を飛躍的に軽くすることができるようになった。1880年代アメリカの高品質メーカーはこれで作られたイギリス製チューブを我先に争って購入した。 (Credenda Tube Co.,はのちNew Credenda、1919年TI傘下のち、ガスレンジやオーブンが一体化したユニット「クッカー」メーカーCredaとなり、TIがラレーをダービーに売却した1987年に同じく売却され米国GE傘下。Credendaとはラテン語で「信じられるもの」という意味。教会では信仰すべきものという意味で使われた。対語はagenda。この社名は古典的な響きとあいまって、信頼できる会社・信頼できる製品という意味合いでつけられた。)(archive.org | americanheritage)

1886
m19
ラレー前身の自転車工房創業
Woodhead Angois & Ellis
 : 機械技術者(メカニック)ウッドヘッドさん(R.M. Woodhead)、機械技術と設計の専門家(engineering and design expert)ポール・アンジュアーさん(Paul Angois) 、会計士、ウイリアム・エリスさん(William Ellis)の3人でノッティンガムのラレー通り(W A E Raleigh Street)に自転車店を始める。
The J.B. Brooks Company:馬のハーネス用の革ストラップ、一般革製品製作。1919年カタログでは革製のトランク、帽子ケース、ツールチェスト(道具入れ椅子)、シガートレイ、タイヤ入れ。自転車サドルは1912年以前から。1920年代にはLycett Saddle Companyが買収。30年代にはLeatheries Cycle Saddleコンツェルンが買収。30年代後半にはオートバイ工場もあったがオートバイの名前は買収以前のBrooks Company。
1887
m20
Raleigh

10人ちょっとの従業員と3つの工房で週3台、年150台を製造販売した。

3人はフランク・ボーデンFrank Bowdenさんと出遭う。ボーデンさんは、法律家で、香港で成功した後、(サンフランシスコに移住していた?)。ボーデンさんは38才とまだ若かったのに体を悪くし余命短いと宣告されてた。お医者さんは「生き延びたいなら自転車にのりなさい」とすすめた。すすめに応じてボーデンさんは自転車に乗り始める。半年後、なんと健康回復。ペニーファージング型よりもより改良されたWoodhead Angois & Ellis製安全自転車の販売を手伝いたいとボーデンが経営に参加する。(ちゃま:ボーデンさんの絵姿がこちらに(他に1890年のLight Roadsterや1894年の工場。5階建ての様子がわかります)

フランク・ボーデンさん(Sir Frank Bowden, 1st Bt. )は1848年1月30日生まれ、1921年4月25日に死去。73歳。(thepeerage.com) ここにはスターメーアーチャーもボーデンさんが創始者で会長さんだったとあります。1男4女を儲けました。ラレーの跡継ぎとなったハロルドさんは4番目に生まれた長男でした。

ボーデンさんは宣伝と売り込みの才があったとあります。もしかしたら、「自転車で命を取り戻した」とはボーデンさん自らを主人公とした神話マーケティングなのかもしれません。 もしお医者さんの話が真実だとすれば、ボーデンさんに自転車ではなくもしヨガをすすめていたらラレーはなかったでしょう。でも、もしお医者さんの話が本当だったら、ボーデンさんはそのお医者さんをラレーの生き神として祭ったはずです。お医者さんの名前さえも不明だとしたら、これは、あの時代の一流の神話マーケティングだと思えます。ボーデンさんを救ったお医者さんの名前知っていますか?)

それから、ボーデンさんは香港で当てて、イギリスに凱旋したような書き方になっているし、体を悪くして余命半年というのが大体の話だけれど、古いものだとボーデンさんは、香港ではsmall successであって、死にそうではなくて単に体を壊した、というような書き方のものがありました。確証など何もないのですが、後者が本当のような気がします。上にも書いたように「死にそうだったのに自転車でよくなった」というのはボーデンさん一流の宣伝だったのではないかと思います。それから小金ではなく大金をあてたような書き方は、後年、創業者を大きく見せようということじゃないかと思えるのです。香港で大成功したのなら何で成功したのかの記録が必ずあるはずですから。香港側にでも。ヨーロッパってそういう記録が本当に残っていますから。

12月18日 ラレーサイクルカンパニー
ラッセル通りに移転
The Raleigh Cycle Company
名称変更

ボーデンケーブルの発明者ではなかったボーデンさん:フランクボーデンさんは、自転車のブレーキ操作などで使われるワイヤーケーブル、ボーデンケーブルの発明者として知られています。こちらこちらなど。でもwikipediaではこんな風にかかれています。ボーデンさんが1902年に、ロッドブレーキをケーブルで置き換えたことになっているけれども裏付けがなく、一方、アイルランド人のアーネスト・モンニングトン・ボーデン(EMボーデン)さんがロンドンで1896年に発明したとイギリスとアメリカの特許として記録されていて、1900年にEMボーデンさんがラレーにライセンスを与えているということが書いてある、と。このときの合意書では”EMボーデン特許団体”にラレー社も加わるということらしく、他にもライセンスを受けた会社が複数ある、と。また、これとは別に、自転車用のフレキシブルケーブルはジョージ・フレデリック・ラーキンさんという人が、1902年に特許を取っていて、このラーキンさんがEMボーデンに1917年まで工場長として雇用されていたということがBritish National Archivesに書いてあるそうです。EMボーデンさんの発明は実際には使えないものだったようで、一方ラーキンさんのは自動車やオートバイ用に開発したものだったようですが使えるものだったということです。ラーキンさんが特許取得時に相談した特許代理人が、「EMボーデンさんの既存特許に似ているようだから」と(そのときすでにあった)ボーデン特許団体を紹介されて、EMボーデンさんのところでラーキンさんのものを作る話としてまとまり、そのすぐ後にまずはEMボーデンさんのところの自動車部長そして1904年に工場長として雇用されたという流れだということです。

ということは、『EMボーデンさんがフレキシブルワイヤー技術の最初の発明者だけれどもきっかけだけで実用にはならないもので、(知らなかったけれども)ラーキンさんが使えるものをつくった発明者で、このフレキシブルワイヤー技術が、フランクボーデンさんのラレー社によって広く使われた』という事実が、最後に『フランクボーデンさんが発明したフレキシブルワイヤー』と単純化された伝わっているということですね。エジソンの電球に似ている話ですが、全員が利害関係者としてつながっているところが話しを複雑にしています。最後は一番お金を生み出した人の名前が残って伝わっているということですね。発明というのはちょっと違っていて一般人からみると改良や開発と呼んでしまうものでも、特許で認められればそれは発明であって発明者(inventer)となりますから、複数の発明があることなど思いもしません。発明とは一つだけと思ってしまいます。一人が発明者なら全部は偽発明だと思ってしまいます。一般には細かいことはわかりません。いわれているかなりのことがこういうことなのかもしれません。ちゃまの想像ですが、ラレーがボーデンケーブルと頻繁にその名称をPRしたのでしょう。たとえフランクボーデンと書いてなくともそうみんなが想像してしまったということだと思います。

1888
m21

1888年中にボーデンさんは2000ポンドを出資。エリスさんの持分も買い上げて会社の株の半分を持つ。(ということは、ウッドヘッドさんとアンジュアーさんはまだ株主だということです。会計担当者が抜けて法律家が入った3人チームとなったということですね) ラッセル通りの5階建てレース刺繍工場に移転。19世紀のノッティンガムはレース刺繍産業の地でたくさんの工場があった。ラレーの工場では従業員200人以上、週60台年3000台以上を製造販売。ラレーの自転車は18ポンド以上で市場の最高値の価格。

1889
m22

ボーデンさんの経営参画で会社は株式[有限]会社(limited company)としてThe Raleigh Cycle Company Ltdとした。年産7000台以上。この年から少額出資者を募り、1891年に株公開、1894年までにボーデンさんはウッドヘッドさん、エリスさんからもラレー株を買って、ラレーのオーナーになっています。(まだアンジュアーさんの株の話がでてきません) この年からオートバイも製造。

TI

Credenda Seamless Tube Co. Ltd.

1880年代からチューブ製造会社のジョージバーン社(George Burn Ltd.)がSmethwickに来た。1889年にはCredenda Seamless Tube Co. Ltd.がBirmingham Plate Glass Co.が持っていたBridge Street工場を買って、チューブ工場Credenda Worksとした。1896british-history

1890s
1890
m23
Raleigh

ボーデンさんがRaleigh Bicycle Companyを創立(ラレーUK記述)

1891
m24

1892
m25

1892-93 A A Zimmermann 1893 'Zimmy' World Amateur, Champion.

作業者200人、販売400人で4万5千台

1893
m26

1894
m27

1月、アメリカのフィラデルフィアで自転車博覧会。ラレーも出展。ラレー契約のジンマーマンが主役級での扱い。NY Times

Rudge Whitworth Cycle (en.wikipedia.org)

ラッジさんが亡くなってD. Rudge & Co(1880年創立)をホィットワース自転車Whitworth Cyclesが買収。ラッジホィットワース自転車 Rudge Whitworth Cyclesとなった年。オートバイ製造は1910年から。(1935年へ)

1895
m28

1896
m29
Raleigh

新工場 - レントンのファラデー通り(Faraday Road, Lenton元の工場から数マイル先)
850人で自転車年産3万台
(このときでもう相当なメーカーです)

ハンバー工場長だったジョージ・ピルキントン・ミルズ(George Pilkington Mills)さんがラレー実際の運営を取り仕切る。アメリカ流の流れ作業を取り入れた。 Nottinghamshire Archives: Raleigh of Nottingham (nationalarchives.gov.ukイギリスアーカイブ) 日本にこういうものはないのでしょうか?

Carlton創業

イギリスのカールトンでFred Hanstockが1896年創業。自転車が流行していた。オートバイも製造。

TI

1889からクリデンダ製作所Credenda Worksは1896年にバーミンガムのStar Tube Co., が買収したが、翌年1897年にはウェルドレスチューブス社Weldless Tubes Ltd. (のちTubes Ltd、TI創業の中核企業) 傘下となった。(1906年に工場閉鎖、1908年復活)

1896年にジェームズ・ジョージ・アクレス(James George Accles)がGrenfell、Accles、the Accles Arms、Ammunition and Manufacturing Companyを買収してアクレス社(Accles Ltd.,)を創業。自転車部品、特にチューブを製造したが1898年に会社清算で株と資産は売却。1901年、トマス・ポロック(Thomas Pollock)がこの一部を買い、Oldburyで 「アクレス&ポロック社(Accles and Pollock)」を創業。[caparo accles&pollock/caparo](1919年に、創業したばかりのTIが買収)

1897
m30

低価格自転車製造販売のためGazelle Cycle Companyガゼルを設立。(オランダの会社とは関係なし)

TI

Credenda WorksをWeldless Tubes(後のTubes Ltd.,)が買収british-history.ac.uk

1898
m31

レイノルズ・チューブは釘を作っていたメーカーで、1898年にJ. ReynoldsとJ. T. Hewittの特許でPatented Butted Tube Companyとして創業。自転車用チューブ(フレーム)を製造。1928年にTIが買収。TI傘下にバーミンガム地域のチューブメーカーNational Tube (Halesowen)、Tube Products (Oldbury)、Perfecta Tube (Aston)。 (british-history)

1899
m32

多額の借金を抱えたためガゼルはラレーに吸収。

TI 自転車サドル製造Wright, Bindley and Gell社をCrownshaw, Chapman and Co.,と合併。
1900s
1900
m33

1901
m34

オールスチール自転車(全鋼製自転車)販売。ラレーの販売では'The All-Steel Bicycle'として長く使われた(世界初?でもラレーはなにが世界初かとは宣伝せずに、高品質の自転車を量産した会社として知られている。)

Phillips (Phillips Cycles Ltd. later Britisch Cycle Corporation en Raleigh Industries Ltd (1954-1964).)

J A Phillips and Company Ltd (National Archives)

Smethwick Heritage Trail のBridge Street、(Downing Street, is the famous bicycle saddle maker, Brooks Saddles)

Phillips Cycles Ltd. オートバイ製造1954-1964

1902
m35

スターメーアーチャーSturmey Archer Gears Limited設立援助、子会社にlink

1903
m36
Raleigh

3.5馬力(H.P.)水冷エンジンで前二輪後ろ一輪の三輪自動車The Raleighette ラレイエットを製造したが損失計上で1908年で撤退。

1904
m37

1905
m38

Raleighette ラレイエット。T. J. Biggs設計で自動車を作る。4気筒16馬力Fafnirエンジン搭載。試作のみ。

1906
m39

低価格自転車ロビンフッド(Robin Hood Cycles)を買収

1897年にWeldless Tubes Ltd. (のちのTubes Ltd.)が傘下としたクリデンダ製作所Credenda Worksの工場を閉鎖→1908年にフィリップスに売却。british-history
1907
m40

フランク・ボーデンさんがラレー100%オーナー。(との話があります。ここでアンジュアーさん分を手に入れたのでしょうか)

1908
m41
BSA

Eadie Manufacturing(Redditch)を買収してコースターハブ特許を得る。

のちサンビーム自転車(Sunbeam Cycle)、ニューハドソン自転車(New Hudson Cycle)も合併している。

BSAは自転車事業を1957年ラレーに売却。チューブインベストメンツグループの一部 B.S.A. 名と商標(トレードマーク)は使われ続けた。 自転車への投資は当然オートバイと自動車へと続き、B.S.A. の自動車は1907年。オートバイはフレーム製造が1903年、完成車は1910年。1910年にはコベントリーのデイムラー社を買収、1911年にはB.S.A. 時手負う者はデイムラーエンジンを載せた。最終的に自動車はコベントリーで作られるようになった。1931年ランチェスター(Lanchester)買収。F. W. Lanchesterは1910年にデイムラーのコンサルティング技術者となっていて、1910年のダイムラー買収でB.S.A. のために働いた。自動車事業は1960年にコベントリーのジャガーに売却。1898年のクリスタルパレスショーでエンジン付三輪車を展示したアリエル自動車 (Ariel Motors Company)をWWII後買収しBSAのエンジン車部門での重要な投資となった。

Phillips

自転車と自転車コンポーネントを製造していたバーミンガムの"J. A. Phillips & Co. Ltd.,"がWeldless Tubes Ltd. (のちのTubes Ltd.)からクリデンダ製作所Credenda Worksを買収しバーミンガムからSmethwickにあるクリデンダの工場へ移転。british-history.ac.uk

1909
m42
1910s
1910
m43

ハーキュリーズ(Hercules Cycle and Motor Company Limited)、アストンでエドワード・クレーン(Edward Crane)が創業。社名は頑丈さ、耐久性を感じさせることから。少したって、バーミンガムのコベントリー通りで週25台ほどの自転車生産を開始。1923年には13年もほおって置かれた元ダンロップ工場をHercules's Britannia Worksに。ハーキュリーズはラレーのライバルで、スポーツイメージがあった。独自の三速ハブを使用していた。

のちTI傘下でBCC、1960年TIがラレー買収しBCCがラレーへ。ラレー生産のハーキュリーズ車としてAMF (American Machine & Foundry.)が販売した"AMF-Hercules"が有名。 (sheldonbrown, madeinbirmingham) Amfad (AMFはハンドメード風ステッチのAMFステッチ、製パン業界ではAmflowアムフローで日本でも使われていますが、ハーレーダビッドソンの前所有社、日本の原子力黎明期に技術導入に参加した会社(原子力委員会)でも。)

1911
m44
日本:

「日本には丸石商会によってトライアンフと一緒に明治44年に輸入が始まりました。ラレーも「ラレー型」「ラレー式」と称してトライアンフ同様自転車から様々な部品に至るまで数多くのコピー商品が作られていました。」(大正時代のニセブランド自転車 谷田貝一男, 自転車文化センター 友の会だより第8号

日英同盟が契機となってイギリス製自転車の日本への輸入が増加、
特にラッジがラージ号自転車と呼ばれて人気

1912
m45-t1
日本:

 「本邦自転車工業の発展史は大つかみでいうと三期に分けられる、第一期は日露戦後より欧洲大戦前に至る揺籃時代、これを反面から申せば輸入全盛期、宣教師に伴なわれて一種のキリスト教のプロパガンダとしての役割を演じつつ紹介された自転車は、日清、日露の両戦役を二大分水嶺として娯楽品から実用品に変化した、今の日米商会などが外人の曲乗を招聘して、大童の宣伝を行った頃である、従ってこの当時は主に英米自転車の汎濫時代殊にイギリスのラージ号が羽振りを利かせた、そして宮田、東洋商会などが極小規模に内地製の自転車を作り始めたが勿論『ソロバンの合う』企業ではなかった」 

第二期は欧洲戦争中の全盛時代、大戦による先進諸国の輸出能力の減退と一台二十五円五十銭(四割の高率保護関税の設定とは内地工業の発展に絶対のチャンスを与えた、大戦前までは『地主と県会議員と医者』といった特権階級のみに限られた自転車は、今やあらゆる階級の人々に開放され始めた、女学生が自転車で通学するために寄宿舎廃止の余儀なきに陥った地方もあった、かくて大正八年の生産高は一挙千二百万円を突破したが、それは同時に企業の濫興を促し来るべき反動沈衰の第三期に対する準備を整えたのである

即ち大正十年の一千五百万円を絶頂として大正十二年からは急角度に下降し、大正十三年に至っては七パーセントに転落した、昭和二年からやや頽勢を挽回しているがこの安定期は金解禁恐慌の鉄槌と銀価下落による海外市場の梗塞により忽ち動揺を起し、輪界は未曾有の不況に見舞われたのである 神戸大学 新聞記事文庫 (神戸大学附属図書館) 報知新聞 1930.11記事

こういう情報はすばらしいです。日本は文体、文字がかなり変わってしまっているので検索が難しい。一方、英語ではかなり昔の新聞情報でもそれほど古く感じないのですが日本で習っている英語が古式ゆかしいからでしょうか。 (リンク先にさらに有用な情報あり)

1913
t2

WW I 1914年7月28日 - 1918年11月11日
1914
t3

1915
t4

再び自動車製造。シャフトドライブのサイクルカーで11馬力4気筒アルファエンジン。数台を生産して戦争のため終了。

1916
t5

Phillips

J. A. Phillips & Co. LtdからPhillips Cycles Ltd.に社名変更(?)

1917
t6

パテントバテッド社Tysselyのヘイホールに移転

1918
t7

1919
t8
Raleigh

オートバイに参入。1950年代初頭まで継続。

TI 創立:1919年 Tube Investments Ltd, 複数チューブ企業が合併して誕生株式公開。 (1982年からTI Group plcと社名変更)

シームレススチールチューブメーカーTubes Limited (旧Weldless Tubes), New Credenda Tube (のちアブリべされてCredaクレダと称)、Star Tube、St. Helen's Tube and Metal が合併し1919年に株式会社として登記。 ここにSimplexや以下のAccles & Pollockを含めて書いてあるものもある。

アクレス&ポロック社(Accles & Pollock)を買収 (bikeforum)

溶接なし(ウェルドレス)継ぎ目なし(シームレス)の鋼鉄製チューブを製造するメーカー、さまざまな特許を保有。New Credenda concern was started by W. C. Stiff, a Birmingham merchant-turned-manufacturer and inventor, at the end of his ten-year agreement not to produce under his own patent in competition with the assignees. (british-history.ac.uk)

アバーデール (Aberdale Cycle Co.)創業。ジョゼフレビーさん(Joseph Levy)は14歳で父親と自転車を販売。当初は路上で手押し車に乗せて売り歩いたOut of the Blue/The MOPED Archive

1920s
1920
t9
Raleigh
Norman前身創業

第一次世界大戦が終わってフランスから戻ってきてケント、アシュフォードのジェメット通りでNorman Cycleの前身、Kent Plating & Enamelling Coでチャールズさんフレッドさんノーマン兄弟がフレーム製作、エナメル、メタルプレート事業を開始。1920年代に自転車製作開始して数千台を生産するようになる。1935年にビーバー通りに工場を建てノーマンサイクル社となる。モペッドはランブラー印で中央アメリカ、マレー、カナダなど大英帝国に輸出。 (1943年のラッジ・ホィットワース買収へ)

1921
t10
Raleigh

フランク・ボーデンさんが4月に73才で亡くなり、息子ハロルドさんが社長となって以降の17年間を率いた(1938年リタイア)。利益分配制度を導入。オートバイや自動車にも参入。オートバイはサイドカー付もあったり、自動車は三輪車だったよう。

フランクさんの奥さん、ハロルドさんのお母さんはアメリア・フランセス・ヒューストンAmelia Frances Houstonさん。レディボーデン(Lady Bowden)は1937年になくなった。(準男爵夫人はレディで呼ばれるのだそうです。)

ハロルドさん(Sir Harold Bowden, 2nd Bt.)は1880年7月9日生まれ、1960年8月24日死亡。ハロルドさんは1908年(28歳直前)、1920年(40歳)、そしてリタイア1938年(58歳)以後の1952年(72歳)、1957年(76歳)と4回結婚しています。(thepeerage.com)。ここにはHe was president of Raleigh Industries.とありますが、いままでのちゃま調べでは1946年からがRaleigh Industries Limitedとなっていますけど。

それから、最初の奥さんとの間に2人お子さんがいて長男フランク・ヒューストン・ボーデンさん(Sir Frank Houston Bowden, 3rd Bt、10 Aug 1909年8月10日生まれ、2001年12月1日死亡 ヒューストンのミドルネームはおばあさんアメリアさんの苗字からでしょう。)、長女ルースさん(Ruth Bowden 1911年2月26日-2003年時点でご存命で、2008年現在も健在でいらっしゃれば97歳!です。)

(初代の)フランク・ボーデンさんは、baronet(バロネット準男爵)を授けられていて、これは世襲で、現在4世代目となっています。(Wikipedia "Bowden Baronets"として記述があります。4代目はSir Nicholas Richard Bowden, 4th Baronet (1935年生まれ))

ここで気になるのはハロルドさんが亡くなったのが1960年で、ラレーがはじめて身売りをした年だということ。もう一つは、ハロルドさんが1938年にリタイアした後の後継者情報が見つけられていないのですが、息子さんのフランクさんはどうしていたのかなということ、です。

バロネット3代目のフランクさんは、ラグビー高校卒業、1931年にオックスフォード大学マートンMertonカレッジで学士取得。その後戦争にいって、1953年にオックスフォードで修士取得です。マートンカレッジ時代にあたるのですが、映画会社を自分で作って自分で映画をつくったようです。1928年にBIFという当時は有力な製作会社のThe Battles of Coronel and Falkland Islandsという戦争ドキュメンタリーでライターを、1931年には自分のカレッジの名前をつけたMerton Motion Picturesという映画会社を作ってThis Oxfordというコメディ(IMDb)をつくっています。能力があったのでしょうが早くも自分でつくれたのはお金持ちのおぼっちゃま面目躍如たるところでしょうか。その後の職業についてはthepeerage.comには、『He was an industrialist and landowner.』とだけあとは書いてあります。もしかしてindustrialistということはラレーを引き継いでいたのでしょうか。でも結局悠々自適だったということでしょう。そして1960年にお父さんがなくなって、3代目のノッティンガムバロネットとなります。1960年に法的にFrank Houston Bowdenとなったとあります。さらに、『3rd Baronet Bowden, of the City of Nottingham [U.K., 1915]』を継いだということです。しかも、2000年には日本から旭日小綬章(英語だとOrder of the Rising Sun of Japan (Gold Rays with Rosette))を受賞。日本に尽くした人がもらうものですが、外務省情報によれば『英国剣道連盟理事長、ジャパンソサエティ前副理事長(Vice-Chairman)で名誉副理事(Honorary Vice President)』で、『イギリスでの剣道普及に貢献、日英相互理解を推進』ということです。

そして、デイリーテレグラフ 2001.12.10に、3代目フランクさんの訃報とともに、日本の刀や武器の収集家だったことが一番最初に書いてあります。フランクさんといえば日本の武器ということなのでしょう。13世紀の備前の一文字則房や20世紀の囚人の首に巻いたものなどが、ボーデンさんのおうちに飾られていたといいます。そのおうちとは"Thame Park"(テームパーク)といわれるもので、(thamehistory The Bowden Years) 第二次世界大戦後から1982年までボーデンさんが住んだオックスフォードシャーThameにある大邸宅。いまはテレビと映画のセットになっているそうです。12世紀のシトー(Citeaux)派修道院をリフォームして建てられた18世紀のカントリーハウスでその敷地は約150ヘクタール。部屋数100。チーターを暖房付の窓付きの部屋で飼っていてお客さんを出迎えてくれていたそうです。しかも、ボーデンさん、このチーターを助手席に乗せて自動車でお出かけすることが好きだったそうですが、たくさんの人が車を降りて見物に来るので止めたそうです。イギリスの人は度胸がありますね。大学ではウィンタースポーツに入れ込んでいたともあります。映画のことも書いてあります。This Oxfordに出演したのは妹のルースさん。1932年のロスアンゼルスオリンピックにはイギリスオリンピック委員を父ハロルドさんと一緒に務めたとも。名家です。昔のThame Parkのことがちょっと書いてありますなんの映画で使われたかが乗っています。タイトルに驚かずリンク先まで読んでみてください。

最初の奥様と世界一周の旅の途中、日本に1週間ほど滞在。でも帰国後2人は分かれてしまいました。フランクさんは1937年にリディア・マノロビッチさんと2回目の結婚をしていて息子さん3人。リディアさん亡き後、1989年にオリオール・バースさん3回目の結婚。フランクさんの後を継いだ4代目バロネットのリチャードさんは1935年なので最初の奥様との息子さんです。

(ラレー創業の)おじいさんの方のフランク・ボーデンさんも武器収集家だったそうで、そのコレクション癖を受け継いでいると書いてあります。3代目フランクさんのコレクションは1982年にThame Parkを離れたときに売りに出されて24万ポンド。1ポンド130円なら、3億1200万円。200円なら4億8000万円ほどですがフランクさんにとってはお小遣い程度だったかもしれません。

こちらで英国剣道連盟の話があります。サー・フランク・ボーデン・タイカイ&プレミアズカップというボーデンさんの名前を冠した大会があるようです。2003年にイギリスで開かれた第12回世界剣道選手権大会イギリスでは剣道人口1000人くらい

1921年7月7日に公開されたオートバイ後輪の泥よけ特許が、ハロルドボーデンさん名義のラレーサイクルカンパニー社の申請になっています。 発明者の名前が不明になっています。

ハロルドさんが住んでいたのは、現在ゴルフコースになっているようですが、ノッティンガムのBeeston Fields(1837年築)というところのようです。

1922
t11

1923
t12

Patented Butted Tube Companyが社名変更Reynolds Tube Company, Ltd.
1924
t13

Reynolds マンガンチューブ開発

1925
t14

1926
t15-s1

従業員2500人

1927
s2

1928
s3

TI

レイノルズ・チューブ Reynolds Tube 買収 (創業1898年へ)

アイバン・ステッデフォード Ivan StedefordがTIに入社

大恐慌 1929年10月29日 -1930代中期から 1940代まで影響
1929
s4

B.S.A. Cycles, Ltd.設立。三輪オートバイ (three-wheeler)F.W. Hulse 1021cc V型2気筒 前輪駆動。1929-1936 2気筒モデル 5,200台 4気筒モデル1,700台 (remarkablecars)

1930s
1930
s5

Phillips Bicycle porcelain sign for Phillips Cycles Limited Bicycle porcelain sign for Phillips Cycles Limited-Birmingham, England, great lion graphic, c.1930, some discoloration & old in-painting, otherwise VG cond, 32"H x 22"W.
1931
s6

ハンバーサイクル買収

ラレーライトデリバリーバン(LDV)エンジン598cc積載560ポンド

Carlton

1932年、カールトン初の軽量自転車は地元のTommy Ashurst というレーサーのために作った自転車。

1932
s7
1933
s8

1933-1935(31-36) セーフティセブン 4人乗りツアラー最高時速55mph

BSA Cycles Ltd., 三輪自動車 remarkablecars
カールトン CARLTON CYCLES LTD.登記carltoncycles.me.uk
1934
s9

1934年にRaleigh Cycle Holdings Company Limited、社員4000人。自転車メーカーは300ほどあったけれどWWIとWWIIの間(1915-1938)にほとんど消滅。

カールトン Worksop工場へ移転carltoncycles.me.uk
1935
s10
Reynolds 531 Max Bigford と Austyn Reynolds 5:3:1の比率のマンガンスチールチューブセット
Rudge Whitworth Cycle (en.wikipedia.org)

大恐慌でレコード会社のEMIにラッジ名義(Rudge)を売り、EMIがラッジ自転車を販売(1935-1943)。1943年にラレーにラッジ名義を売却

1936
s11
Carlton

1936年頃スポーツ市場に目をむけ、レース仕様やクラブ仕様を作る体制となった。これはオートバイや自動車が普及しだしたため荷物輸送用の自転車(utility bikeユーティリティバイク)の需要がしぼみだしたため。イギリスではなくなることはなかったけれどもアメリカではこの種の自転車はまったくなくなってしまった。この時期、スポーツサイクリングクラブが急速に増え、さらに、オドノバンによって会社の売上は倍増。

1937
s12
Carlton

1937年までに作られたスポーツ市場向け自転車には次のようなものがあった。ザフライヤーThe Flyer、マストスタートMassed Start、マストスタートスペシャルMassed Start Special、スーパーパイソンSuper Python、コンチネンタルContinental、シルバークラブマンSilver Clubman

1938
s13

ラレーを強力なリーダーシップで献身的に牽引したハロルド・ボーデンさんがリタイア。

ラレーとハンバーに加えて低価格自転車を再びガゼル名で販売。年間40万台。まったく関係のないオランダのハゼレ(Gazelle)と混同されないように、ガゼルはロビンフッドと名称変更。

Carlton

ダン(ダニエル)・オドノバンさんさんが1937/38に会社に参画したことでカールトンが躍進。オドノバンはオートバイ業界で働いていたが、トレードショーでたまたまカールトンブースを見て、セールスマンを募集中だったカールトンに仕事を申し込んだことから。それだけのことしか伝えられていない。オドノバンさんには商才があって、さらに販売網も構築、カールトンの工場は拡張を続けた。

WW II
1939
s14
Carlton

1939年にはカールトン創業のハンコック一族はオートバイ事業に乗り出し、カールトン自転車はダン・オドノバンさんが買って引き継ぐ。1958年には、ダンの息子さんも経営に参加。ダン・オドノバンさんの当時の写真は自転車に乗って道路を疾走している様子のものが多い。

Reynolds スピットファイア戦闘機のチュービング
1940s
1940
s15
1941
s16
1942
s17
販売は13万

戦時中は武器を生産(1939-45)。主に戦闘機で使われた20ミリカノン砲の信管や薬莢(やっきょう:弾薬ケース)。このため9000人と雇用が増えた。

1943
s18
ラレーがラッジ印を買う。
TI

1920年創業のノーマンがRudge Whitworthを買収。ノーマンは会社を買い、ラッジ印はラレーが買う。元ラッジ車はノーマン印で販売。ラッジのロン・バトラーがノーマンの販売担当役員となる (1953年TIに買収される)

Carlton

WWIIでは、軍用自転車の生産と修理をおこなって工場を維持していた。

1944

TI

1940年代Ivan Stedeford社長(1944-1963)が会社を伸張拡大

TI社の歴史ではここから凋落が始まったことに

1945
Raleigh
1946

戦後となりRaleigh Industries Limitedと社名変更

TI

チューブインベストメンツの自転車市場への参入決定は1946年には株主に告知されていた。「他社はコンポーネントをグループから購入するのではなく自社生産しており、そのため在庫余剰が発生している。いまや、自転車が比較的落ち込んできているため、、スクーターとモペッドの生産をグループとして拡張している。」と説明していた。(british-history)

"Hercules Cycle and Motor Company"をTIが買収。TIは以前からフレーム用チュービングを供給していた。Wikipedia

1947

アメリカ子会社

1948
Raleigh
1949
Raleigh

レグ・ハリスReg Harrisがラレースポンサーでプロスプリント選手権(コペンハーゲン)優勝(ハリスは以降1951年まで3年連続、1954年に4回目優勝、1974年には54歳で英国スプリント優勝)
ラレー社員となっていた50年代に競技用自転車会社を買収すべきとの提案がカールトン買収につながったと自著で明かす。

Phillips 1949年にはすでにTube Investments Ltd.,子会社。Credenda Works クリデンダ製作所を拡張して従業員2,000余名。自転車コンポーネント生産流通。1971年にはまだクリデンダで企業活動していた。 british-history.ac.uk バーミンガム近郊では他に Coventry-Eagle Cycle、Motor Co. Ltd.,がコベントリーからウイルス通り(Wills Street)のグローブレーン製作所に1959年に移転し、1968年まで企業活動をした。その後、Barton-upon-Humber (Lincs.)に移転。 british-history.ac.uk
1950s
1950
Raleigh
TI

チューブ生産は自転車コンポーネントや完成自転車を製造する際に必要になるもので、バーミンガムの「フィリップス (J. A. Phillips and Company)」 (Smethwick, Walton)、「ブラウン (Brown) 」、「ブランプトン (Brampton Fittings)」、「ハーキュリーズ (Hercules Cycle)」、「アームストロング (Armstrong)」、「ジェームズ (James Cycle Company)」 (Harry JamesとOsmond companyが合併した会社で1950-1954にはAssociated Motor Cycles傘下)、およびバーミンガム外から「アバーデール (Aberdale)」、「ラッジホィットワース (Rudge Whitworth)」、「ノーマン (Norman)」を買収。その事業は「British Cycle Corporation」となり、バーミンガムのハンズワース(Handsworth)を本拠とし、市場を独占するようになった。「Wright Saddle」は後に買収。そして、最後に、1960年、市場に残った最後の大企業「Raleigh Industries Limited」買収。ラレーは、「B.S.A. Cycles」、「J. B. Brooks」が含まれていた。このグループでイギリス自転車製造の9割を占めた。(british-history)

1951

生産100万台、うち7割が輸出用(戦前4割)。東アフリカ子会社。

1952

自転車需要急増、第二工場建設。子会社は南アフリカ、インド

1953
Raleigh

1953年トライアンフサイクル買収 - トライアンフモーターサイクルから自転車にトライアンフとつけて販売する権利を買ったということ。ラレーはトライアンフ名を2番手クラスの自転車につけて販売。 (sheldonbrown)

TI

TIがノーマンNormanを買収(1953/54)。これで自転車チューブ事業独占が完結。British Cycle Corporation結成。(Norman, Phillips, Hercules & Sun)

1950s British Cycle Corporation (B.C.C.) が結成されてTI子会社 * Phillips Cycles * Hercules Cycles (1910-1946TIに) Flickr プレート / oo * Armstrong photo 1969 * Rudge Whitworth (1860-1894-) Photo * Norman Cycles (1920s-1950s/brand1960s) * Sun Cycles

1954

Three Spires買収 カナダ子会社設立

1955

Phillips エンジン付1955-1963

The Gentleman's Club Motorised bicycle The Gentleman's Club Moped Gadabout model P39

1957

1957年BSA自転車事業買収(BSA Cycle Co Ltd, Small Heath, Birmingham)、第三工場建設。子会社設立、オランダ、西ドイツ。

Phillips

Birmingham Stories (Phillips Touring 8-speed Bicycle)

1958

1958年、スターメーアーチャー傘下にJ.B. Brooks (Saddles) Ltd.を買収

ルクセンブルクのCharly Gaulの乗ったReynolds531チューブの自転車がツールドフランスで優勝
TI

アバーデール (Aberdale Cycle Company)を買収。ブリティッシュサイクルコーポレーション (British Cycle Corporation) に組み込まれる。アバーデール最後のモペッドを生産。(The MOPED Archive)

1959
Raleigh

カールトンサイクルCarlton Cycles Ltd買収。Irish Bicycle Industries Ltd.買収後Irish Raleigh Indusuies。

自動車購入者が増えて自転車は半減。第三工場は数年間稼動しなかった。ラレーは対抗するためモペッド、オートバイ生産を復活。

Carlton
TI

就業規則変更で組合と衝突しTube Investmentsがブリティッシュサイクルコーポレーションの従業員1,250名を解雇。多くがハーキュリーズの工場から。(Wikipedia) 

1960s
TI時代 1960-1987
1960
TI

ラレー買収。イギリス市場の4分の3をTIが支配。1959年オートバイ・スクーター販売ピーク。1960からスランプ。1950年代には安価な小型自動車の普及でイギリス自転車販売が急速に落ち込む。TIはラレーに自転車事業を集中。ラレーがTIのそれまでの自転車/モペッド/オートバイをノッティンガム工場に集約。Normans, Phillips, Hercules and Sunの工場は閉鎖。

ラレーはT.Iの Cycle Division(自転車部門)におかれ、スターメーアーチャー(傘下のブルックス)はautomotive division(自動車部門)におかれたあと、のち自転車部門になった。Cycle Division(自転車部門)は1987年にダービーインターナショナルに売却された。

Raleigh

1960年 T I Raleigh Industries Ltd.,
1958年からのアルミ戦争で貢献しTI社長となったRichard Youngリチャードヤングがラレーの責任者(1965まで)。つまり、TI自転車事業の責任者。
Consolidated Cycle Industries (1960)

1960年、ラレー(当時の社名はRaleigh Industries Limited)はラレーがフレームとして使ったレイノルズチューブを作っていたTI子会社British Bicycle Corporationと合併、これでBBCにラレー、BSAのニューハドソンNew HudsonとサンビームSunbeamが加わった。社名はTI-Raleigh。チューブインベストメンツグループTube Investments Group[1960-]傘下。イギリス製自転車の8割を占める。

1960年代半ばには、TI-Raleighは Brooks (one of the oldest saddle makers in the world)、Sturmey Archer (pioneer of 3-speed hubs)、and Reynolds (maker of 531 tubing)も所有。

1960年3月カールトンCarlton[1896-]の工房を買収。ハンドメイド参入を検討していたラレーにレグ・ハリスが進言。レグ・ハリスは買収後、カールトン取締役にわずかの間だがついた。carltoncycles.me.uk

カールトン自転車(1893-1960)の中興の祖ダン・オドノバンDan O'Donovanの2人の息子のうちの1人でラレー買収前には後を次いでカールトン社長だったGerald O’Donovanが率いてカールトンのWorksop工房はラレーでは特別仕様の手作り工房として存続。(買収後カールトンは(Worksopの)Dock Roadを本拠としたが、2年後に火災で全焼し、(Worksopの)Kilton Roadで再開。) 1974年まで最高級自転車はここで作られた。Worksop工房は1981年終了。ダンなど中心はスペシャル開発部門を発足させ1974年にイルケストンIlkestonへ移り、Reynolds 753 Reynolds 531 SLを開発、イルケストンでは自転車を年1万台生産。

Reynolds Cycle Technology [1898-現在](1841年John Reynoldsさんが始めた会社で1897年(1887年)には軽量で頑丈なバテッドチューブ製法の特許を取得。それを基に1898年には専門の会社The Patent Butted Tube Co., (1923年Reynolds Tube Company, Ltd.、1977年TI Reynolds)。これがレイノルズの前身。Reynolds 531は1930年代に登場したアルミやチタン以前からのマンガンクロモリスチールチューブ。) 先のURLには1961年11月のサイクリングマガジン誌のカールトン。

1963年30年間TIを率いたStedefordが退任 1967 モールトンMoulton Cyclesを買収 1968 自動車産業に目をむけたTIが家具メーカーCox of Watfordを買収しラレー工場に生産を移す。Cox of Watfordは自動車用シートを作っていた。いすなどで有名。 1969 ドリームラインDreamline 乳母車シリーズ販売。チョッパーChopperイギリスで販売。

1960年代後半にラレーカールトン"Raleigh-Carlton" カールトンの自転車にラレーのロゴをつけたモデルをつくりアメリカ国内販売網で販売。

ラレーハイエンドモデル(1975-99)

Carltonカールトン:ノッティンガムでのハイエンド自転車生産は1950年代後半のレグ・ハリスReg Harris時代で終了。競技用自転車マニアの時代が幕を開け、流行し一挙に需要が増えた時代が過ぎ去り、死んでいった。ケビンとジェラルドのオドノバン兄弟がのカールトン自転車を1960年に買収したのは、この隙間を埋めるものだった。しかし、カールトンは(その後も)ほぼ自律して運営された一方で、ラレーブランドをつけた一連のパフォーマンスプロダクト(性能重視商品)がイギリスで終了となった。

輸出の面では状況が異なり、輸出用ラレー商品シリーズの重要な部分はカールトンが設計製造をしていた。カールトンの販売はうまくいっていたが、それは独自におこなわれ、他のシリーズにいい影響を与えることなどまったくなかった。

軽量(Lightweights)がノッティンガムへ移転:カールトンがうまくいくとラレーブランドが薄まってしまうと考えられたために、カールトンブランドが殺されることになった。生産はノッティンガムの新たに作られた軽量部門(lightweight department)に移された。当初の製品は輝かしいものだった。高性能チューブ(フレーム)、しかし量産品で中級装備の商品とされていた。潜在顧客にはあまり関係がなかった。”打てば響く反応”が本質的に欠落していたラレーでは、商品が意図する顧客ニーズに適合するまでには時間がかかった。ラレーは大陸側のレースチームでは成功していたが、マーケティング部門はこれをノッティンガム製自転車のプロモーションに積極的には利用しなかった。一方、本格的自転車乗りたちはターンしてノッティンガム製軽量に背中を見せ、ジェラルド・オドノバン率いるイルケストンの特別自転車開発部門ラレーチーム工房からフレームセットを購入するというのがヒットとなった(beat a path)。

ノッティンガム製品も改良され、1983年版インターナショナルサイクリングガイドで既製(off the peg)ラレーチームレプリカが年間最優秀自転車の一台に選ばれた。カンパニョーロを装備したものは450ポンド(現在約880ポンド)だった。

特別製品部門Special Products Division:1980年はじめに欧州チームを終了させたことで、イルケストンは閉鎖となったが、ジェラルド・オドノバンとメルビン・クレスウェルは商品開発チームを発足させ、これは後にスペシャルプロダクツ部門(特別製品部門)と呼ばれることになる。この少し前に、”寛大な上司”とクレスウェルが呼んだイボンヌ・リックスがこれを支持し、クレスウェルはランドナーツアラー(Randonneur tourer)を開発し発表した。これは個人的な経験でクレスウェル自身の最初の”本格的”自転車を元に発想されていたもので、もう何年も前にジェラルド・オドノバンがクレスウェルのために作っていたものだった。ラレーではもっとも高価な完成自転車となったが、これが飛ぶように売れた。ランドナー(Randonneur)によってラレーでもしっかりとした設計できちんと作られていればまだ高価格商品でいけるということが実証された。

この成功により小さなチームが特別製品生産として集められた。ここで数々の画期的な自転車が作り出された。当初かなりの量が販売された。ダービーはこの開発工房を応援した。買収の主役だったエド・ゴッテスマンが特に力を入れていた。ゴッテスマンはラレーハイエンドの収集家でもあったため、自身のコレクションに加える一品を常に捜し求めていて、特別製品の自転車が出ればすべて購入していた。

社長のサンディ・ロバーツもこの部門を率先して支持していた。しかし、1990年ロバーツ退任後から、支持を失っていく。熱接着技術(DynaTech)やチタン合金フレーム製造や金属基複合材料(metal matrix composites)などの初期貢献があったが、ラレー役員会は特別開発部門の取り扱いに疑問をもった。利益に貢献するのか?開発経費として考えるべきか?マーケティングの道具なのかそれともマーケティング経費なのか?

損益分岐点としても難しい問題だった。部門間の経費付替が企業社会で流行となっていた時代だった。自律していたにもかかわらず、特別製品部門は社内情報システム経費、人事部経費、さらには役員の自動車経費までをもまかなわされた。販売部門は特別製品部門にはまったく関心がなかった。販売部門はラレー5ツ星販売網(Raleigh 5-star dealer network)経由での販売をおこなう部門であり、特別製品部門の自転車を販売している優良独立系販売店(quality independent dealers)への接触は禁じられていた。特別製品部門の衰退は避けられなかった。まだ部門としては存続しているけれども。

3.7.4 Special Products as niche support for volume production ラレーの考え方は、ラレーはまず量産を主要にすえることということだ。ラレーのブランド哲学もまた、ラレーは量販できる最良の自転車を作らねばならないとしている。つまり、ラレーがマウンテンバイクを販売するなら、それはトップでニッチのラレーMTBでなければならない。必然的に、特別製品部門は現在ラレーチーム用のMTBを作っている。ラレーチームの役割は「ラレーが世界最良のマウンテンバイクを作っているということを見せること」。それは自分たちだけではまったく利益が出ないが、一般用自転車の販売時のブランド力を拡大することに貢献している。さらに、チームマシンから一般向け自転車への開発技術の応用や改善もある。

現在の特別製品部門の基本的な考え方は「量産品に応用できるニッチ市場」である。

1961

9月、Managing Director社長Leslie Roberts。モールトンが利益に貢献するとは思わず、生産販売契約を破棄

サン自転車Sun Cycle生産がカールトンWorksop工場へ移管、カールトン従業員60名

フランスのJacques AnquetilがReynolds531チューブのジタン車でツールドフランス優勝
1962

60年代 従業員8,500人

Carlton
Phillips

carltoncycles.me.uk Phillips built by Carlton circa 1962-1965 (RC10Xの画像)

TI
1970s
1970s

1970 モペッド、オートバイなどエンジンをつかった製品を終了

1971年、オランダにTI Raleighチーム

1972年カナダケベックウォータールーに工場

1973年日本ではホンダの1972年設立の商社子会社ACT(アクト・トレーディング:現ホンダトレーディング)がラレーを輸入販売

1974年イルケストンIlkeston工場完成 Raleigh Special Bicycle Development Unit:SBDU
カールトンのジェラルド・オドノバンさん(Gerald O’Donovan)がラレー特別自転車開発部門(Raleigh Special Bicycle Development Unit:SBDU)を創設。ダービーシャー、イルケストンの元ロールスロイス工場の一角に専用工場。TI Raleigh Teamのために開発されたReynolds 753で有名Raleigh SBDU情報をまとめたサイト(たくさんの写真掲載)
レネ・パイネンRené Pijnenラレーチーム
オランダTI-Raleighチーム(1974-1983)

1976 Grifter, Boxer, Strika. http://www.users.globalnet.co.uk/~hadland/neago.html

1977年Reynolds Tube Company, Limitedが社名変更しTI Reynolds Limited (自転車チューブ以外も製造するようになっていたため。自転車チューブ部門は3部門のなかの一つになった。他に、コンコルドのエンジンとして使われたロールスロイスのオリンピックエンジン用フラッシュウエルデッドリム(flash welded rim)製造部門と、油圧シリンダー部門の計3部門。チューブ部門はジャガーXKEのフレームチューブや車いす用チューブなども製造した。

1979年ハフィー(Miamisburg, Ohio)がRaleigh U.S.A.(TI Raleigh (USA) Inc. )の商標権をライセンス。ハフィー時代のラレー高級モデルは日本での生産。ハフィーはbicycles, toys, clothing, and even sunglasses! にロゴを使った。1983年時点のハフィーは中低価格品を量販店経由で販売するマスマーチャンダイザー。ハフィーはIBD市場への参入を目論んで日本で作った高品質自転車をラレーバッジを貼って米国内に流通させた。ラレーは落ち込んできた販売を回復させる手段と考えた。

Chopperなどの人気モデルがあった一方で、1973年(70年代後半?)のピーク(年400万台)を境にラレーの販売は横ばいを続けた。

70年代には設計部長(design director)のアラン・オークレーさんAlan Oakleyはマーケティング部門に移動していた。

1980-87
1980s

長い間、会社の中心は設計部門だったのに、80年代にはマーケティング部門が会社の中心となった。

会社としてのラレーの視点が移動したのは、アレックス・モールトンのスペースフレーム、マイク・バロウズのモノコック、アルミ製ダイヤモンドフレームなどテクノロジーを進化させる設計部門への投資が企業収益に貢献できなかったという結果によるもの。マーケティング重視に視点が変わることで、「すでに確立されているテクノロジー」や「簡単に買えるテクノロジー」という考えを重視することになった。そしてテクノロジーを押し出すことはなくなった。けれども、その一方でラレーが市場牽引型の企業となろうとしたわけでもなかった。

時代時代で少しずつ変化していたが、次のような典型的なマーケティング部門となった。マーケティング部門長がラレー取締役会の重要なメンバーとなった。マーケティング部門長以下には、製品開発の責任者と、コンセプト設計チーム、そしてマーケティングサービスチームが配置された。コンセプト設計では製品の基本イメージを開発する。マーケティングサービスでは広告、販促サポート、宣伝イベント、広報をおこなう。全員で12人から20人ほどだった。 ラレーアメリカメンテナンスブック

1981年にはイギリス市場占有率4割まで落ち込む。

(米)1982年以降は米国販売のラレーはイギリス生産ではなくなる。Huffyにライセンス委託されHuffyは日本での生産とした。

詳細:1982年にイングランドのラレーは財務危機となり、アメリカのハフィーコーポレーションにライセンス許可し、ハフィーはアメリカ国内でのラレー車生産販売をはじめた。ハフィーはカールトンが作った全国に渡る自転車販売網の使用を許された。1982年以降のラレーは、イギリスのラレーが作ったものか、アメリカのハフィーが作ったものかを確認する必要がある。一方、カールトンの工場は閉鎖。社名変更しラレーサイクルカンパニーオブアメリカとなりこれはアメリカ国内を担当し、一方カナダを含めた世界全体はラレーサイクルカンパニーオブイングランドが担当した。1984年までに最高級モデル以外のラレーモデルは極東で生産され始めた。ブリヂストンはアジアのほとんどを生産した。

1982-84 BMXブームBurnerバーナー

1982年スターメーアーチャー単速コースターブレーキ生産終了、400人解雇。

1983 Head Office Lenton Boulevard Sold. 1983 Oct Head Office moved to Triumph Road.

BMXスタイルのBomberとBurnerのヒットが落ち目だったらラレーを助け、1983年、販売約100万台、ラレーのイギリス販売のピーク、1982年までにイギリス市場の半分のシェア。

1984年スターメーアーチャーダイノハブDynohubs生産終了、46年の歴史に幕。

(米)1984年ロスアンゼルスオリンピックでラレーのバッジ(プレート)をつけた自転車に乗ってアメリカチームが強烈な勝利を飾る。ファニー自転車が登場

(米)アメリカでのライセンス販売はハフィー側が思ったほどはうまくいかなかったが、ラレー側はここで知恵をつけ、ライセンス販売のメリットを知った。

(米)でBMXの流行。けれどBMXは高価格自転車販売へつながる道ではなく、ハフィーのラレー担当者がどんどん会社を辞めていった。

1985年、リックス主導のマウンテンバイク、マーベリックMaverickイギリスで発売。トップ了承に3年を要しアメリカから吹いたMTBブームは収束していたため、その販売は芳しくなかった。(米)1985年ハフィーとの契約が終了。

1985 A T B's (U K). Boom Years - 1988/89/90.

1985年、ラレーサイクル売上3割減。1980-1985期損失3000万ポンド。BMXが急速に消えていった1985年にはすでにラレー本体自体が悪化していた(詳細)。

1986年、TIグループ全体の売上に占めるラレー自転車の売上は14%。

1986年幼児自転車:プラスチックを黒色で塗り、電子音を鳴らす装置をつけた子供自転車。試験的にVektarシリーズを販売してこれが完全な不成功に終わったことから考え出された。スイートウルフは16インチ車輪で6-7才向けで大ヒットモデルとなった。他にワイルドキャット20インチ車輪で7-9才向け、ウルフクラブはスタビライザー(補助輪)装備のジュニア用。これは補助輪付の自転車としてはかつてない価格の自転車で70ポンド=現在の120ポンドで販売された。

(米)1986年チューブインベストメンツ傘下のラレーUSA部門が復活

1985年ダービー社以前のラレーイルケストンフレームモデルの情報

TI時代の特筆すべきモデル(売れたモデルというわけではありません):

  • 小径車:Raleigh Twenty (1968)、後継は1975でも販売、加工しながら1980年代まで、折りたたみ版Stowaway (1971)、後継Safari (1984)、名称変更Compact(1987)
  • 目的別少年少女向け:Chopper(1970)、Commando(1973)
  • BMXへのラレーの対応:Grifter (1976)
  • マウンテンバイク以前:Bomber (1981)
  • BMX:Burner (1982) 大ヒット
  • マウンテンバイク:Maverick (1985) 経営陣了承遅延で投入時期を逸し不振
  • 女性向け:Wisp (1983)、Raleigh Collection ( Wisp, Cameo, Misty )
  • 子供向け:Street Wolf、Wild Cat、Wolf Cub
  • ハイエンドは別項
TI

1981 売上半減、1000万ポンド損失計上 英国エンジニアリング業界不況

1981 カールトンWorksop工場閉鎖、83年の歴史に幕。202人が働いていた。Worksopで作られた自転車は8万台以上。この後、カールトン車はノッティンガムで生産。閉鎖後のWorksop工場で元従業員幾人かでColumbia Cyclesとして活動し自転車製作をしばらくの間おこなった。

1982 社名変更TI Group plc,。ブリティシュアルミニウムカンパニー売却。アルフレッド・ハーバート社買収。TI傘下25社。

1984年、200万ポンド損失計上。Parkray 売却。

1985年、ラレーサイクル売上3割減。1980-1985期損失3000万ポンド。Utiger 会長。EveredがTI株20%取得。

1986年、TI売上構成比、家庭用器具(domestic appliances)25%、業界特化エンジニアリング(航空機用エンジンリング[Dowty Turbine Engine Components (D-TEC)]、メカニカルシール、真空溶鉱炉) 25%、自動車automotive products group(マフラー/排気系[欧州3位]、シート機構) 20%、ラレー自転車14%。

1986年5月6月、New World 家庭用器具売却。Credaクレダが英国GEへ売却。

1986年7月、クリストファー・レウィントン Christopher Lewinton がCEOに(元ウィルキンソン・ソードWILKINSON SWORD[武器製造]会長)。エンジニアリングに集中することを決定、本社をバーミンガムからロンドンに移転、ラレー売却(1800ポンド)、グロー・ワームGlow-wormとパークレイParkray売却(6350ポンド)。

1987年10月、TI Machine Tools売却

1988年3月、イギリス鉄鋼公社(British Steel Corp同年民営化British Steel plc)との合弁企業2社を売却。Cold Drawn Tubes Ltd(冷間引抜鋼管)はTI持分75%を、Seamless Tubes LtdはTI持分25.5%を売却した。

この後、TIは自動車航空機分野のエンジニアリングに経営集中。

ダービー 第一期 ((ルクセンブルク)時代 1987-1998
The Derby Bicycle Group ダービーバイシクルグループ
1987-1989

1987 ラレー創業100周年

+--- ダービー社のラレー -----------------+

Derby International Corporation S.A. ("DICSA") 

1998年5月14日までDerby International Corporation S.A. ("DICSA") が株式を保有。 これは、世界の自転車会社、自転車構成部品製造会社を直接、間接に保有していたもの。会社はそれぞれ独立した会社として運営されていた。会社は自転車や自転車部品を製造、組立、(および会社によっては流通も)おこなった。これらは集合的にThe Derby Bicycle Groupとダービーバイシクルグループと呼ばれる。特筆すべき事業運営として、オランダの"Gazelle"、イギリス(U.K.)のラレーUKとスターメーアーチャー ("Raleigh U.K.", and "Sturmey Archer")、カナダのラレーカナダ("Raleigh Canada")、ドイツのドイツダービー("Derby Germany")、南アフリカのプロバイク("Probike")、合衆国のダービーUSA("the Derby U.S.A." これは「会社」の一部門)がある。

1988年、ラレーの米国ライセンス権を持っていたハフィー(Huffy Corporation)からRaleigh Cycle Company of Americaの資産を買収。メダリスト・インダストリー社(Medalist Industries Inc.)からウエストコーストサイクルサプライ部門(West Coast Cycle Supply:WCCS)をNishikiブランドとともに買収。2つの事業は合併してラレーUSA(Raleigh U.S.A.)とした。プロバイク南アアフリカ(Probike South Africa)事業会社は1989年にCycle and Hardware Factors社を買収して設立し、1990年のJ.H. Slotar社1991年のCycle Centre Wholesale社を加えた。1992年にはドイツの自転車メーカーMusingを買収。1997年にはWinoraとStaiger事業の資産と運営を買収。Winora-Staigerはドイツ南西部で長年自転車製造と卸業をおこなってきた会社である。1997年にはまた、Univegaを持ち株会社として設立し傘下にドイツのユニベガグループ(Univega Group)を買収した。これによりユニベガUnivegaブランド名および付随する商標(trade names, trademarks)とデザインの権利を取得した。

Nishikiは、日本のカワムラサイクル(川村工業)の海外向けブランド。Nishikiの前はAmerican Eagleで販売していた。名称変更は72か73年ごろ。米国内で扱っていたのがウエストコーストサイクルサプライ(WCCS)。WCCSはNishiki/American Eagle以外にAzukiも取扱。名前がちがうだけでどれも同じ自転車。Nishikiロゴの下にAmerican Eagleと書いてるものもあった(たぶん移行期)。シートチューブ上部に四角で囲んだ右上がりで書いた"KB Bicycle"の文字があり、KBはKawamura BrandあるいはKawamura Builtの意味。"Produced for American Eagle in Japan"という表示もある。ダウンチューブのロゴはバンブーフォント。bikeforum.net/同じ。ウエストコーストサイクルサプライが川村には話さず独断でNishikiの米国商標登録をした。川村は当時の日本人の常で慮(おもんぱか)って訴えなどしなかった。カワムラサイクルは阪神淡路大震災で工場が被災に合い、自転車をやめて車いすの主要企業となっている。子会社から子供載せ自転車を販売している。

WCCSは1975年から。以前はWest Coast Cycle Supply Company (WCCSC) 。同じbikeforum.net

TI Group plcから自転車事業を取得するため、買収前年(1986年)にダービーインターナショナルコーポレーションSA (DERBY INTERNATIONAL CORPORATION S.A.,)をルクセンブルクに創設。創設者はニューヨークの法律家エド・ゴッテスマンさん(Ed Gottesman)とイギリス人サリーにあったダンロップスラセンジャー(Dunlop Slazenger International Ltd)の社長だったアラン・フィンデンクロフツさん(Alan Finden-Crofts)。ゴッテスマンさんは2001年で63歳。Coudert Brothers法律事務所[1963-1970]、 Gottesman Jones & Partners[ 1970-] 。

Edward GottesmanAegottesman

ゴッテスマン、ジョーンズ&パートナーズの紹介から

ゴッテスマンはゴッテスマン、ジョーンズ&パートナーズのシニアパートナー。法律をCoudert Brothersのニューヨーク事務所で学び、1962年にロンドン事務所に就いた。1970年に現在の事務所を始めた。当時はゴッテスマン&パートナーズという名称。(大規模法律事務所ではない)独立系アメリカ法律事務所としてはUKで初期の一つ。

ゴッテスマン、ジョーンズ&パートナーズを始めてから、エドワードは法の道以外に商業的事業の道も追求している。国際的な産業の持ち株会社の創業者兼会長でもある。その投資先には世界最大の自転車会社、英国の2つの歴史的な磁器メーカー、世界的なパソコン事業、健康管理施設の財務などがその代表である。

エドワードは米国バー協会および国際商法委員会、米国国際法協会のメンバーで、米国国外法協会の理事、在英米国商工会議所BABI会頭。大統領国際活動諮問委員会のイェール大学メンバー。著作は、ワールドエコノミック誌Blueprint for Public Company Reformやワールドポリシージャーナル誌などが近著。

ちゃま:他情報で、ゴッテスマンさんはラレーの高級自転車が大好きで、ラレーで高級自転車ができるのを心待ちにしていて、できたモデルはその一台を必ず自分のコレクションとしたそうです。

1987年4月1日ダービーインターナショナルコーポレーションDerby InternationalがTIチューブインベストメンツから1800万ドル(プラス負債1400万ドル)でラレーを買収。これでイギリスのラレーUKはルクセンブルクのDerby International Corp. SA傘下となり、ダービーの経営の主要部門だがしかし全体の一部となる。

BMX育ちの大人は細いタイヤのロードに戻ることはないとイボンヌ・リックスがハイブリッド自転車(クロスバイク)を出す

ラレーからマウンテンバイク販売を開始。1990年までに300万台を販売し売上が1986年の3割伸びた。ラレーがすぐに収益をあげるようになったことは驚きだった。しかし91年から飽和状態となり販売はダウン。

1988年、ダービーインターナショナルはドイツとアメリカに進出。 (同時に投資家グループはTI所有の食器関連ロイヤルウースターRoyal WorcesterやスポードSpodeも買収。これは別の持ち株会社を作り傘下とした。CEOはアランフィンデンクロフト。関連

1989年、イギリスの自転車販売の半分がラレー。ピーク時には年間200万台をノッティンガムの65エーカーの工場で生産した。第一工場(F 1)売却。Faraday RoadからLenton Blvdにかけてあった跡地は90年代に住宅地として販売。現在はさまざまな家が建つ風景となっている。Lenton Times

Technium テクニウム技術:種類の違う素材の接続技術

  • 1984年ロスアンゼルスオリンピック用自転車で使った技術一台4万ドル(400万円)かかったといわれている。
  • 1986年から市販車に流量:スポーツツーリングロードバイク 440 460 480でシアトル工場での生産でアルミメインチューブとスチールラグとの接続に使った。

1988年オリンピックでアメリカチームがラレー
Technium テクニウム技術を多方面で活用

1990s
1990

1991

景気後退で従業員1800人から1200人に。

ラレーとは関係なくなったTI(レイノルズは10年間はTI傘下だったので取引はあったはず)

1992 Dowty Group plc買収

1996 Accles & PollockをHay Hall Groupに売却。税引き前利益2億2250万ポンド。12%増。ROI16%。secinfo

1950年代には7000人いた雇用が1996年には800人。

1999年5月時点で46カ国350拠点で社員25,500人。John Crane、Forsheda Polymer Engineering、Bundy 、Dowtyが4大事業。(日本に日本ジョン・クレーン、イギリスはここTI Group PLC; Forsheda Polymer Engineering Group'98/4、BundyはTIオートモーティブ

ダービー 第二期 (アメリカ)時代 1998-2000
ダービーサイクルコーポレーション The Derby Cycle Corporationとその子会社群
1998

1998.5.14

1998年5月14日からDerby International Corporation S.A. ("DICSA") は資本再構成によりその事業を再編し、傘下の自転車事業会社自転車構成部品事業会社は直接的間接的にデラウエアのダービーサイクルコーポレーション(The Derby Cycle Corporation)によってアメリカで事業をおこなうようになった。

1998年、社名変更ダービーサイクルコーポレーション(デラウエア):資本構成変更で経営陣が刷新。経営危機で5月14日資本入れ替え、アメリカに本社移転。ゴッテスマンは主要株を投資会社に渡し、セイヤーが筆頭株主に。社長フィンデンクロフツはセイヤーの派遣した社長に交代し閑職(一取締役)に。ゴッテスマンとフィンデンクロフツはダービーファイナンス社(Derby Finance Inc:DFI)株保有による間接的ダービー株20%保有のみ。資本比率は米投資会社セイヤー65%、ペルセウス13%、DFI(ゴッテスマン、フィンデンクロフツ、パール出資)20%
世界ブランド:ラレー、ニシキ、ユニベガ、地域ブランド:ハゼレ(オランダ)、ドイツのKalkhoff、Musing、Winora、Staiger

1999

1999年2月4日、「会社」はダイヤモンドバックグループ(Diamond Back Group)の資産(およびある程度の負債も推測される)を現金約4430万ドルで買収。ダイヤモンドバックグループは英領バージン諸島の株未公開企業Diamond Back International Company Limited, ("Diamond Back")、デラウエア登記法人企業のウェスタンステーツインポート社Western States Import Company Inc., ("Western States") 、スウェーデンの株未公開企業 Bejka Trading A.B.,("Bejka")があり、それぞれ自転車、自転車パーツおよび関連およびフィットネス機器の卸業を営んでいる。

1999年5月、イギリス子会社ラレーUK社長マーク・トッドMark Toddはノッティンガムでのフレームの量産中止を決定。

ダービー時代の特筆すべきモデル:

  • マウンテンバイク:300万台を超えるヒット。1990年までの4年間、利益増で驚かれる。
  • 折りたたみ自転車:Rudge名義 1989 Montague Bi-frame26インチ米国設計台湾製やや高価)、Rudge名義20インチDahon (90年代後半)
  • ハイブリッド車(日本でのクロスバイク):オランダVredestein製タイヤのPioneerレンジ(1991)
  • 後続マウンテンバイク:Alex Moulton 20インチデュアルサスATB (1988米)、Activator (1992)、Activator II、サブブランドM-Trax高品質MTB (1989)、Max入門用MTB (1995)
  • 電動アシスト:Select (1997)
  • ハイエンドは別項
2000s
2000s

ラレーUK社長MD Phillip Darntonbikebiz

2月Razorfishとダービーが99年12月にカリフォルニア向けに始めたBikeShop.comを4月から全国展開と発表. 消費者への直販。Build-to-order機能。findarticles, BikeBiz

2000年にダービーインターナショナルがラレーUSA、ラレーUK、ラレーカナダ、ラレーアイルランド。

2000年1月、英国子会社ラレー社でMark Toddの後任社長Phillip Darntonがノッティンガム工場敷地をノッティンガム大学へ売却すると発表 (詳細)

2000年3月30日役員一覧

               Name                     Age                               Position
---------------------------------    ---------    ---------------------------------------------------------
Frederic V. Malek                        63       Chairman and Director of the Company
Gary S. Matthews                         42       Chief Executive Officer and Director of the Company
Daniel S. Lynch                          41       Chief Financial Officer of the Company
Warren L. Batts                          67       Director of the Company
Alan J. Finden-Crofts                    58       Director of the Company
A. Edward Gottesman                      62       Director of the Company
Frank H. Pearl                           56       Director of  the Company
Dr-Ing. Thomas H. Thomsen                65       Director of  the Company
William W. Austin, Jr.                   63       President, Derby U.S.A.
Colin Bateman                            46       Managing Director, Sturmey Archer
Klaas Dantuma                            56       Managing Director, Gazelle
Phillip L. Darnton                       57       Managing Director, Raleigh U.K.
Reginald Fils-Aime                       39       Chief Marketing Officer
Simon J. Goddard                         48       Corporate Controller
Peter Miller                             52       Joint Managing Director, Probike
Kim Roether                              36       Managing Director, Derby Germany
Irwin R. Slotar                          52       Joint Managing Director, Probike
John V. Spon-Smith                       46       Managing Director, Raleigh Parts & Accessories Europe
Carlos Tribino                           37       General Manager, Bikeshop.com
Nancy E. Uridil                          48       Vice President, Global Sourcing
Farid Vaiya                              56       President, Raleigh Canada
Frederic V. Malekはセイヤーグループの会長。セイヤーは1991年設立。セイヤー設立以前にノースウェスト航空バイアウトを共同推進し、自身が社長兼取締役副会長となった。以前はマリオットコーポレーション(ホテル)の執行副社長。ニクソン内閣では閣僚。ブッシュとは友人の関係。

2000年6月6日、「会社」は自転車構成部品およびその他エンジニアリング部品製造事業であるスターメーアーチャーの売却を決定。英国資産の売却および海外子会社(簿価合計額800万ドル)は、レナーク社(Lenark Limited)と継続的に話し合われており、2000年6月30日に約因が完了した。売却費用として60万ドルが支払われた。2000年10月4日に、レナーク社に売却した事業が清算された。この結果、「会社」が100万ドルを追加費用として負担する必要となる予定。

2000年10月、1999年度業績発表で、ラレー業績が大変な悪化と発表される。

資産 会社はイギリス、オランダ、ドイツ、カナダ、我執国で生産している。会社はラレーUKの倉庫施設を2000年6月に売却している。ラレーUKは部品および関連商品(パーツおよびアクセサリー)事業のために2000年5月から新たな倉庫をリースするようになった。イギリスと合衆国を除いて、会社がこれら生産施設を保有している。イギリスと合衆国の生産施設および欧州、南アフリカ、台湾の倉庫と事務所施設はリースである。以下の表はフリーホールド(自由保有不動産)とリースホールド(借地権付き不動産)の資産について。会社はこれらの物的資産すべてについて財産所有権および使用権を有する。

運営主体           場所                         リースホールド資産
ダービードイツ クロッペンブルク、ドイツ 工場
ダービードイツ............. ロストック、ドイツ 工場
ダービードイツ............. ゼンフェルトSennfeld, Germany 工場、事務所
ハゼレGazelle................... ディーレン、オランダ 工場、事務所
ラレーカナダ............ オークビル、カナダOakville, Canada 事務所、倉庫
ラレーカナダ............ オンタリオ、カナダWaterloo, Canada 工場
ダービーサイクルコーポレーション... スタムフォード、コネチカット 事務所
ダービードイツ............. キルヒハイム、ドイツ 事務所、倉庫
ダービードイツ............. ニトバルテン、スイス 事務所、倉庫
ダービースウェーデン *............ イエテボリ、スウェーデン 事務所、倉庫
ダービー貿易社 *........ シンセン、中国 事務所、倉庫
ダービー貿易社 *........ 台北、台湾 事務所
ダービー貿易社Derby Trading Co *........ 台中、台湾 事務所、倉庫
ダービーUSA............... ボーリングブルック、イリノイ州 倉庫
ダービーUSA............... カマリロ、カリフォルニア州 事務所、倉庫
ダービーUSA............... ハノーバーパーク、イリノイ州 倉庫
ダービーUSA............... ケント, ワシントン州 工場、事務所
プロバイク................... ブルームフォンテーン、南アフリカ 倉庫
プロバイク................... ダーバン、南アフリカ 倉庫
プロバイク................... オタリ、ケープタウン、南アフリカ 倉庫
プロバイク................... ポートエリザベス、南アフリカ 事務所、倉庫
プロバイク................... サンドトン、南アフリカ 事務所、倉庫
ラレーアイルランド........... ダブリン、アイルランド共和国 事務所
ラレーUK............... ノッティンガム、イングランド 工場、事務所

* ダービースウェーデンおよびダービー貿易社Derby Trading CoはSEC提出報告書では「その他の会社」に含まれる。

自由保有不動産資産はすべて、2億940万ドイツマルクの複数通貨対応の不動産担保物件となっている。

会社はコネチカットのスタムフォード事務所およびワシントンのケントの工場施設を閉鎖する途上にある。

ダービー 第三期 (アメリカ)末期時代 2000.12-2001.8
2001

2月14日付 BikeBizでダービーサイクルのネットショップBikeShop.comの閉鎖が伝えられる。www.bicycleretailer.comが「ダービー社がコア資産以外の売却を予定」と報じる。ここでは、同じ消費者へのスポーツ用品系直接販売サイト(Bike.com、MVP.com)の閉鎖につづいたとしている。

4月13日Derby’s $51m loss: it’s a bit of a horror story(bikebiz)

4月25日ダービーのマーケティング担当役員(chief marketing officer)だったReggie Fils-AimeがVH1ケーブルテレビのマーケティング担当上級副社長となったという記事。ダービー在職は2週間だった!。Fils-Aimeはピザハットでマーケティング担当上級取締役、ギネス(Guiness Import Co.,)でマーケティング担当上級副社長として1997年に会社初のTVCF。VH1では消費者向けと業界向けイベント、ネットワークでのイベントマーケティングを予定していた。allbusiness.com

Gazelle sale completed; Derby is now debt free(bikebiz):7月19日ダービーオランダ社(Derby Nederland B.V.)がハゼレをハゼレ持株会社(Gazelle Holding B.V.,)に売却完了。ハゼレ持株会社はヒルデ投資管理社(Gilde Investment Management B.V.)が管理するオランダの会社。買収価格は現金1億4250万ユーロ(約8800ポンド)。2001年6月1日時点でハゼレの負債および未払税は1190万ユーロ未満。2001年6月1日時点のハゼレのバランスシートに基づいて若干の調整の可能性あり。買収額1000万ユーロはエスクローされ、コンティンジェンシー決定後に支払われる予定。SEC報告では、これによりダービー負債は一掃され、アランフィンデンクロフツがハゼレ以外のダービー資産をMBOするための資金調達への障害がなくなった。ハゼレ以外は利益を出していなかったが、フィンデンクロフツはできると見ている。セイヤー、ペルセウスなどダービーの取締役会では会社を部分売却するよりも全体としての売却が好ましいとしている。他にスポーツ系投資会社が興味を示しているが全体ではなく利益が得られそうな部分のみに焦点を当てていると見られている。ダービーではゆっくりとシェイプアップしつつあり、アメリカではユニベガUnivegaが最近棚上げ(終了)となった。」

ジョージ・ソロスなどの投資家グループが、ダービー救済策として2100万ドルを拠出。アラン・フィンデンクロフツが呼び戻される。

ダービーサイクルが2001年8月20に米国破産保護。Gazelle Rijwielfabriekを1億4250万ユーロ(1億2200万ドル)

TI

2000年9月、1851年創業のエンジニアリング大手企業のSmiths Industries Ltd.と合併発表。11月Smiths Industries社が社名変更Smiths Group plc。12月、合併完了 。2001年自動車事業が独立、TI automotive。2003年シール事業部がTrelleborg AB社に事業売却。

再生ラレー時代 (本拠アメリカ) 2001-
2001
社長はイギリス人だけど、資本はアメリカだから、アメリカを本社としているのでしょう。
資本がアメリカなら経営はアメリカ的経営にならざるを得ないです。

2001年9月1日の英国内開催レースでBike.comがスポンサーとなっているレーサーが出場している。British National Time Trial Championshipscyclingnews.com

9月28日アラン・フィンデンクロフツを中心に負債込み7300万ドルでダービーサイクル買収、ダービーをラレーと社名変更、他のメンバーはダービーUSA会長Bill AustinとUSA社長Tom Curran
このときフィンデンクロフツをバックアップしたのは、2000年12月にダービー社に資本注入した顔ぶれと同じThayer Capital, Perseus Partners, Soros Equity Partners。フィンデンクロフツとセイヤー、ペルセウス、ソロスエクイティの投資家グループがそれぞれ42パーセントを保有、残り16パーセントがダービーの他のマネージャーで分配。最初におこなわれる施策は世界中のダービー子会社の名称変更。最終決定ではないが、ダービーUSAはラレーアメリカ、ダービーカナダはラレーカナダ、他も同様になる模様。

フィンデンクロフツは「各事業部門はそれぞれが独立して経営をおこなう。全事業が負債を一掃して再起するので、1987年の最初の買収同様に経営できる。債権は各事業部門でおこない子会社間での貸し借りはなくす。」ダービーサイクルと呼ばれた持株会社はラレーリミテッドとなる予定。この名称変更は10月末の売上計上が終了したところで最終決定される予定。ドイツダービー社と英国のラレーについてリストラを含めた一連の変更を予定しているとフィンデンクロフツ。

ラレーアメリカはバイアウト以前から、経営陣は財務上の問題を抱えていたダービーUSAの改変を真剣におこなっていた。ダイヤモンドバック生産をワシントン州ケントの製造工場に統合することが問題となっていた。管理体制にもかなりの変更をしていた。そうしている間に破産申請となってしまった。

「本当に多くの販売店のみなさんがシュウイン/GTと私たちのことを心配してくれていた。契約するに見合う供給者なのかを判断するのに長期的な意思決定が必要だったろう。われわれは何も言えなかった。」とダービーUSA会長のビルオースチン。「このことはすでに過去の話となった。インターバイクは盛大で、非常に感激した。私は毎日販売店のみなさんと話、バイアウトについて説明した。今バランスシートはきれいになり、長期負債はなくなったと。反応は大きかった。私たちが持ち続けているベストな製品ラインを一つプレゼンしたことはとても助けになった。」

過去の数年間の(ちゃま:シュウインやダービーなど)供給側の混乱のために、小売業者の多くが新ブランドを選ぼうとしている。インターバイクで話をした多くの小売業者が一番自分たちのみになって考えてくれる供給業者(メーカー卸のこと)にするといっていた。

経験豊富なダービー経営陣と専門店流通網があるので新生ラレーはディーラーに多くを提供できるとオースチンは言う。組立工場を運用する必要がないので、マーケティングと販売と流通という事業の基本に焦点を当ててることになるとオースチン。「販売店のみなさんはショーでのアジア製自転車のペイントと品質に感激していた。私たちは彼ら(販売店)が組立に費やす労力を最小限にするように努力しているところだ。」

破産法申請をしたダービーに興味を持ち、買収したいと手を上げたのはトレックとハフィーだった。トレックはまもなく降りたが、ハフィーはデラウェア連邦破産裁判所の法廷で経営陣と対立した。ハフィーのオファーはダービーUS事業の現金買収だった。債権者と破産宣告時のダービーオーナーは全世界の事業全体を売り渡したいとこの提案を拒否した。

セイヤー、ペルセウスがダービーを買収するのはこれが二度目になる。1998年5月に、セイヤーとペルセウスはダービー株の大部分をオーナーだったエドワード・ゴッテスマンとフィンデンクロフツから買収した。2人は1987年にチューブインベストメンツ(TI)からダービーを買っていた。2000万ドル現金に加えて、新オーナーたちは保証規定への申し立て、退職金問題、環境関連の税や経費といった偶発債務(contingent liabilities)に備えなければならない。 allbusiness(Bicycle Retailer誌2001年11月1日のコピー)

2001年12月 3人の裕福な農夫の訴えで環境への影響を調査したノッティンガム市議会がラレーブルウェル新工場建設に再度ゴーサイン。ラレーはトライアンフ通りの敷地を2000年にノッティンガム大学に売却済み。2003年7月ブルウェル工場稼動のために2002年4月には建設着工の方針。bikebiz しかし3人の裕福な農夫の反対はつづき、1月にフィリップダーントンはノッティンガム外で探すと談。
2002年1月 ラレーUKは子会社のラレーアイルランドを終了、アイルランドでのラレー自転車とラレーP&A(パーツとアクセサリー)の卸はユーロサイクル社との5年契約。フィリップ・ダーントンは『自転車市場の将来に備えるため』と説明。bikebiz

2008年4月12日-8月3日まで、ノッティンガム大学DHロレンスパビリオン内ギャラリーで"Wheels of Fortune"と題されたラレーの歴史を振り返る展示がおこなわれた。lakesidearts.org.uk/Exhibitions/
そのお誘いコピーに現代のイギリス人というか、現代のノッティンガムの人がラレーをどのように見ているかの一端が垣間見れます。"Wheels of Fortune"とは『(それに乗れば)幸福に連れて行ってくれる車輪』と『成功した(富を得た)自転車会社』を賭けているのでしょう。Raleigh_greatest_name_in_cycling

ラレーサイクルは長い間ノッティンガムと共にあり、その製品は世界中に輸出されていた。ラレー通りで小さく始まり、世界帝国を築き上げて、ラレーは誰でもが知る名前となった。オールスチール自転車(‘All-Steel Bicycle’)を生み出し、3段変速ギアを装備し、レグ・ハリスのようなチャンピオンサイクリストが成功し、それらすべてが会社を成功に導いた。近年になると、イメージに訴えかけて人気のあったチョッパーやBMXなどで有名だった。

しかしラレーは自転車以上のものだった。会社は従業員福利厚生で先陣を切り、従業員の社交の場、スポーツの場も提供した。ノッティンガムでの雇用主として第一級であり、工場とオフィスはレントン地区一帯を占めていた。この一部が現在ノッティンガム大学のジュビリーキャンパスとなっている。

主にラレーサイクルカンパニーのアーカイブの展示となる。ノッティンガムシャーアーカイブが主催。

展示はノッティンガムシャーアーカイブの学芸員によるもの。大学が保管している文書やコレクションも使用される。

Wheelsoffortune

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